渡り鳥は毎年 読解検定長文 小5 冬 1番
渡り鳥は毎年、同じ巣にもどってくるといわれています。これまでの 標識調査などによると、 実際、同じ巣にもどってくる例はたくさん 報告されています。何百キロ、何千キロという長い 距離を飛んで、また同じ場所にもどってくるのですから、 彼らはよほど 正確な地図をもっているといわねばなりません。それと同時に 渡りの方向を知るためのとびきり 正確なコンパス(ら 針盤)ももっていることになります。
彼らはいったいどうして、飛んでゆく方向を知ることができるのでしょう。そして、どうして目的の場所を知ることができるのでしょう。
古くから人々の間では、 渡り鳥は、 経験のある年老いた鳥につられて飛んでいる、といわれていました。まだ 若い鳥や 経験の少ない鳥は 渡りのコースをよく知らないので、年をとった鳥を先頭にして、飛んでゆくというのです。たしかに、ガンやカモが飛ぶときは、一列にならんだり、くの字になったりして、いかにも先頭の鳥がリーダーのように見えます。
でも、この鳥は、必ずしもリーダーの年老いた鳥ではないことがわかってきました。
また、先頭を飛ぶ鳥は、たびたびいれかわっていることが観察されています。しかも、まったく 渡りを 経験したことがないはずの 若鳥ばかりで飛んでいることもあるのです。
これについて、ドイツのシュッツという学者はおもしろい実験をしてみました。
シュッツは、まだ 渡りを 経験したことのない 若鳥をぜんぜん見知らぬ土地につれていってはなしてみようとしたのです。
この実験には、シュバシコウというコウノトリのなかまが使われました。シュバシコウはドイツでは 繁殖していますが、イギリスではまったく 繁殖していません。シュッツは、 渡りの時期がくると、この鳥をわざわざイギリスまで運んではなしてみました。本当の 渡りのコースからはずれた、まったく見知らぬ土地からはなされた 若鳥たちは、いったいどうしたでしょう。∵
若鳥たちはみごとに 渡りの行動をおこないました。知らない土地からでも、 彼らは 渡りに出発したのです。ただし、本当の 渡りのコースを飛んだのではありません。ちょうど、ドイツとイギリスが 離れている分だけ、平行にずれて飛んだのです。いってみれば平行 移動です。 若鳥たちの飛んでゆく方向も、そして、飛ぶ 距離も本来の 渡りと同じでした。でも、本当の 渡りのコースとは平行にずれたコースを飛んでしまったのです。
この実験から、 渡り鳥のおもしろい 性格がわかります。 渡り鳥は、 渡りのコースを生まれつき知っているのではありません。Aを出発し、Bをとおり、Cに着くという 渡りのコースは知りません。でも、どの方向に、どのくらい飛べばいいかは知っているのです。
シュッツの実験は、その後、多くの研究者によってたしかめられています。ほとんどの場合、見知らぬ場所につれていかれた 若鳥は、平行 移動の 渡りをおこないます。そして、おもしろいことに、 彼らはそのいつわりのコースで、毎年、 渡りをおこなうということです。本来の 渡りのコースとははずれたところで、新しい 渡りのコースができるというわけです。
ただ、平行 移動の 渡りをするのは、まだ 渡りをしたことのない 若鳥の場合だけです。一度でも 渡りを 経験した鳥は、こんな行動はとりません。すでに 渡りを知っている鳥が見知らぬ場所につれていかれたとすると、 彼らは 渡りをはじめようとはせず、まず、今まで住んでいた 繁殖地にもどろうとするのだそうです。
ここにも、わたしたちにはよくわからない 渡りのふしぎがあります。
渡り鳥は何かに引っぱられるようにある方向に飛びはじめ、そして、一定の 距離を飛ぶと、ぴたりと、飛ぶのをやめてしまいます。こんなことは自然のふしぎというほかありません。でも 彼らはいったい、どうやって飛んでいく方向を知るのでしょう。どんな方法で 渡りの方向を決めるのでしょうか。∵
これについては、以前から、さまざまなことがいわれていました。鳥たちは体の中に 磁石のような器官をもっており、それによって飛ぶ方向を知るのだという意見がありました。たしかに、 磁石さえあれば、方向を知ることは 簡単です。
また、鳥たちは、太陽を見て方向を知るのではないか、という意見もありました。これもありそうなことです。 誰でも知っているように、太陽は東から出て西に 沈みます。そして、わたしたちの住んでいる北半球では、太陽のとおり道は天の南側にあります。ひょっとしたら、鳥だって、このくらいのことは知っているかもしれません。
(倉橋 和彦「 渡り鳥」)
一九四九年、西ドイツの 読解検定長文 小5 冬 2番
一九四九年、西ドイツのクラマーという動物学者は、 渡り鳥と太陽の関係について、ちょっとかわった実験をしました。
当時、 渡り鳥をつかまえカゴの中に 飼っておくと、ちょうど 渡りの季節になると、鳥たちはソワソワと落ちつかなくなり、カゴから飛びだしてしまいそうなほど活動的になることが知られていました。しかも、このような鳥たちは、カゴの中にいても、おもしろいことに本来 渡ってゆく方向に頭を向けているのです。
クラマーは、 渡り鳥のこんな 性格を利用しました。 彼はまず、ちょっとかわった鳥カゴを用意しました。鳥カゴといっても ドラム缶のようなもので、 天井も側面も全部ふさがれています。底は 透明になっており、クラマーはカゴの下にもぐりこんで、下から観察します。 彼は鳥カゴの側面に六つの 窓をあけ、一羽の鳥を中のとまり木に置きました。鳥は六つの 窓からだけ外が見られるというわけです。ただ、 窓はずっと高いところにつくられていたので、鳥は空を見ることはできますが、そのほかの景色はまったく見ることができませんでした。もし、鳥が景色を見て方向を決めたなら、何の意味もなくなってしまうからです。
実験には、ホシムクドリという鳥が使われました。ホシムクドリは、ヨーロッパとアフリカの間を行き来する 渡り鳥です。 渡りの季節になると、とても活動的になることで知られています。クラマーはまず、晴れた日とくもりの日で、ホシムクドリの行動にちがいがあるかどうか見てみました。太陽がでている日とでていない日で、どんなちがいがあるかを見てみようというわけです。
さて、カゴの底にもぐりこんで、一〇秒ごとに鳥が頭を向ける方向を記録してゆくと、クラマーはおもしろい結果をえました。ホシムクドリは、晴れた日には、ほぼ 渡りの方向ばかりに頭を向けているのに、くもっている日には、ある決まった方向に頭を向けるのではなく、まるで 困ったように六つの 窓それぞれに頭を向けるのです。いかにも方向がわからずにあちこち 迷っているみたいです。
これは太陽が何か関係していると思わないではいられません。太陽がでている日には、 渡りの方向がわかりますが、くもりの日にはそれができないのだと思えるのです。
クラマーはさらに実験をつづけました。∵
実は、この鳥カゴには、特別なくふうがしてありました。というのは、六つの 窓それぞれに 反射鏡をとりつけ、太陽光線の向きが自由に変えられるようになっていたのです。ホシムクドリには、 反射鏡でまげられた光がほんものの太陽の光に思えます。
実験はもちろん、晴れた日におこなわれました。 渡りに出発したくてウズウズしているホシムクドリは、やはり 渡りの方向に頭を向けています。さて、太陽光線の向きがかえられると、ホシムクドリはどうするでしょう。
クラマーはいよいよ、鳥カゴの六つの 窓の 反射鏡をとりつけ、光の向きを変えました。 彼は、太陽の光がちょうど九〇度まげられるように 反射鏡をセットしました。そして、またカゴの底にもぐりこんで観察しました。すると、ホシムクドリはなんと光の向きにあわせ、ちょうど九〇度回転した方向に頭を向けていました。ホシムクドリは、はいってくる光にあわせ、みごとに向きを変えたのです。
さらに、太陽の光を 反射鏡で反対方向に九〇度まげても、ホシムクドリはそのとおりに向きを変えました。ホシムクドリにとっては、 窓からはいってくる光だけがたよりです。 彼らは太陽の光を目じるしにして方向を決めていたのです。
(倉橋 和彦「 渡り鳥」)
はじめのニュースで 読解検定長文 小5 冬 3番
「はじめのニュースで、『 故○○さん』とお伝えしましたが、たいへん失礼いたしました。これは 誤りで、○○さんはご 生存で、元気でご活やくでした。おわびして 訂正させていただきます。これでニュースの時間を終わります。」
これはテレビニュースの時間におじさんが 実際に聞いた話で、しかもこのようなアナウンスを耳にしたのは一度や二度ではない。最初に ふ報を聞いたときにはがく然とし、数分後に 訂正を聞いたときにはあ然とした。 私はたまたまニュースの時間わくの最後までつき合っていたから 訂正が間に合ったようなものの、もし 途中でテレビを消してしまっていたらどんなことになっただろう。「たいへん失礼いたしました」だけでは、その人はしばらく生き返れないかもしれない。
ある日ある時に「同時 性」をもって放送することがテレビの最大の特ちょうであるとすれば、それは「一回こっきり」ということでもある。ほんものと同じ「ある日ある時」は二度と 存在しない。テレビが 私たちを強引に引きつけるのは 潜在的にこの 意識があるからである。ビデオに録画しておいていつかゆっくり見ようということでよいはずなのだが、深夜とか旅行中だからどうしても、という場合を 除いては、 私たちはそうしようとは思わない。ビデオはなんとなく本物と思えないところがある。
ところで、テレビ人形 劇の初期の大 傑作「ひょっこりひょうたん島」の作者でもあった作家の 井上ひさし氏はこう 述べている。
「テレビの 条件である『(テレビ) 放映の一回こっきり 性』は、一回こっきりだからこそ 最善のものを 放映すべきであるという 激しい決意を 制作側にもたらすであろう、ともかんがえられた。」「一回こっきりだから 最善をつくそうという気になるというのは、どうやらわたしの 机上の 空論のようだった。放送の仕事にたずさわってみると、『一回こっきりだから、間に合いさえすればよい』という 処世訓の方がずっと 実際的なのであった。」「たとえば、しめ切りに間に合わなくなると、ディレクターたちは『なんでもいいから書いて持ってきなさい。』と電話口でさけんだ。」「そのなんで∵もいいものを見せられた 若い人たちこそ 災難だったのではないか。」
「笑い」の作家として、テレビが世の中の「おもしろいもの」を手当たりしだいに風化していく 乱暴をなげく 前提として語っているのだが、テレビが進むべき方向をなお真けんに 模さくしていた七三年のときにしてすでにこう見ぬいている。
この「一回こっきり」が良く作用するか、悪く作用するかである。 冒頭のおわびと 訂正のように、テレビのまちがいにはあ然とさせられることがしばしばあるが、 常識的にはこの場合には「悪く」作用しているとしか考えられない。テロップの文字の 誤りにいたっては 日常茶飯事だ。 私たちが 直接指てきしなければ、 訂正もおわびもせずにできれば見すごしたいという気配すらある。ニュースで殺された人が、めいわくをこうむったからといってテレビ局を 非難しようものなら、大人げない、わきまえのない人よと世間から笑われるのが落ちである。
しかし、この軽さがまたテレビの気のおけないところでもある。「テレビとはそういうもの」という親しみをいっそう特ちょうづけている。しゅん間しゅん間に消えて行く画(え)と音、そのしゅん間にこだわってはいけない。このことがテレビのわかりやすさの大きな 要因でもある。
( 中略)
テレビマンは「われわれは時間との勝負にかけている」と 格好よく見えをはるが、 私たちはそれがかくれみのや言いわけにならないように 監視しなければならない。要は、 私たちがテレビ的社会の 無責任性を今後もかんげいするか、あるいは 責任をどこまでも形にしてしつように追い求める活字的社会にこだわるかにかかわっているようである。
( 佐藤二雄「テレビとのつきあい方」)
ぼんゴロ二つを 読解検定長文 小5 冬 4番
ぼんゴロ二つをだしただけで、ぼくらはアオたちを無得点におさえ、なんなく一回表をおえた。てんで気をよくしちゃったぼくらは、いきおいにのって 攻撃にうつった。
「小細工よりも、じゃかすか、かっとばしなさい。むこうのボールは、内角低めをねらってるだけだから、バットを短めに持ってあわせていくのよ。」
キリコがしんけんな目つきで、ぼくらに作戦をあたえてくれる。いまじゃキリコはぼくらの 監督けんコーチで、ぼくらに負けないくらい試合に身を入れてくれるんだ。こいつはいっそうぼくらをはりきらせた。
試合は五回戦だけど、やつらもなかなかねばる。それに四回戦になると、暑さのせいか、ジックのボールのスピードがおちた。こいつをばちばちひっぱたかれて、 二塁打一つ、 三塁打二つを取られちまった。得点は八-六と、まだリードしてたけど、ジックはすっかりくさり、くさったとこへ、アオのやつが、みんなをあおりたててやじりはじめた。ジックは完全にダウンだ。コントロールまでみだれちゃって、 暴投を二度もやり、四球やエラーを続出させた。
どうにか 守備陣がそれをカバーして、とにかく四回の表はおわらせたけど、結果はさんたんたるもので、八-十とひどい 逆転をやられちまった。
ベンチにもどると、ジックはグローブを力いっぱい地面にたたきつけた。
「おれは、もう、野球をやめた!」
そうとう頭にきちゃったらしくて、ぼくやキリコがいくらなだめても、ますますかっかっしちゃうばかりなんだ。ぼくもすぐ頭にきちゃうほうだけど、ジックのはちょっと特別 製なんだ。
ミツコやデッコが、景気づけのために、みんなをリードして、いせいのいい歌をうたってくれたりしたけど、ぼくらはしょぼくれちまって、戦意もだんだん遠のいてくんだ。
「おどろいた子たちね。わたしがいつもいってるでしょ。『勝ち』『負け』で、なんでもわりきっちゃおうとするから、そんなことになるのよ。さあ、負けるとわかっても、戦うだけは戦わなければいけないわ。どんなはめになったって、その中でせいいっぱいの努力をするのよ。」∵
キリコはバッターに立つ者ひとりひとりのしりを、大きな手で、ぴしゃぴしゃひっぱたいては元気づけた。が走者、一、 三塁のチャンスもむなしく、無得点におわっちまった。
まだふてくされているジックをとりまいて、 守備につく気にもなれず、ぼくらは、タイムを要求して、ぶらぶらしていた。
六組のきたないやじは、ますますさかんになってくる。ミツコやデッコたちが、負けずにやりかえすのだけど、それもなんだかしだいにいきがさがる。ぼくも最初のうちは、みんなとどなったりしていたんだけど、ジックのがんこさにあきれ、ジックにはらをたてた。
「じゃあ、おまえは、この試合を不戦敗にしようってのかい。」
ぼくはジックをにらみつけた。けど、ジックのやつグローブをひっぱたくばかりで、さっきからなにもいわないんだ。
ピッチャーはジックしかいないから、ぼくらはもうどうしようもないんだ。ほかのやつに投げさせれば、もっともっとわるい結果になるのはわかりきっている。それでここんとこは、どんなことしたって、なんとかジックに投げてもらわなけりゃならない。とぼくは決心した。
「あ、あのサブちゃん――。」
そのとき、おずおず横のほうから、ぼくに話しかけたやつがいた。
「なんだ。うるさいな。」
ふりむいてぼくはそいつをにらみつけた。すっかりいらいらしてたんだな。
立っていたのは 金井だった。みんながなにごとかというふうに、 金井のまわりに集まってきた。さじを投げたように、遠くのベンチからぼくらをながめていたキリコも、立ちあがってこっちを見てる。
「ぼくに、投げさせて、みてよ。」
ひとつひとつのことばを、くぎるように、 金井ははっきりいった。
「なんだって!」
ぼくはじぶんの耳をうたがった。もやしのうまれかわりみたいにひょろひょろして、おまけに、いままでだって野球をしてるのなんか見たこともないやつなんだから、それもむりないというもんだ。∵
ところが 金井のやつ、よっぽど心をきめてるらしく、もいちどはっきり、
「ぼくに投手をやらせてよ。」
といったんだ。ぼくは思わずわらっちまった。でも、 金井の顔は 真剣なんだな。 奥歯をぎゅっとかみしめて、まともにぼくを見つめるようすにあっとうされて、ぼくらはだまりこんじまった。
「よし!」と、ぼくは 金井の上気した顔にむかっていた。「投げてみろ。」
みんながざわめいた。ベンチにいたジックが、なにかいいたそうだったけど、ぼくはかまわずみんなにかたを組ませ、「いくぞっ!」とさけんだ。みんなもさけんだ。ぼくらは七度さけんだ。ミツコやデッコたちみんながかん声をあげ、 拍手し、ぼくらをはげました。ジックがベンチでそわそわしてた。キリコがぼくらにウインクを送ってよこした。
金井はファーストミットを取った。
「おまえはピッチャーをやるんだろ。」
と、ぼくはすこしあきれていった。みんながわらった。
「これが使いなれてるんだ、ごめんよ。」
金井はわらい、それから、ベンチに取り残されたようにすわり、しりをもぞもぞ動かしているジックのところにかけていった。
「いっしょうけんめい投げてみるから、そのあいだにちょうしをなおしといてよね。」
金井はそれだけいいおわると、ひどくはずかしいことをしたかのように走ってマウンドにのぼった。
ぼくら九人は顔を見あわせ、ちょっとくちびるをかんでわらった。やれるとぼくらは思った。そうさ、六組になんか、負けてたまるもんか! ぼくは、ジックにしかめっつらを作っておどけてみせ、みんなといっしょに、声をだしあいながらポジションについた。
金井は左だった。うまいというほどではなかったけど、コントロールがきいたから、左だというだけで、けっこう六組の 攻撃をおさえることができた。それでもその回で二点入れられた。∵
スコアは八-十二だ。だけど、それぐらいはものの数ではなかった。やる気じゅうぶんのいま、四点ぐらい、なんなくとりもどせると思えた。自信は前からあったんだ。ただ、くさっちまって、やる気をなくしてただけなのさ。
「お天気屋さんたち、がんばるのよ。野球は最終回の 裏からよ。」
キリコは 金井の頭に手をおいて、ぼくらをはげました。
金井はジックにむかって、
「打つほうはてんでだめだから。」
と、バッターをゆずった。ジックだって、いつまでもぐずぐずしてるやつじゃない。
「すまん。」と、 金井を見ていい、「さっきはわるかったな。」
と、ぼくらにいった。ぼくらはジックをひやかしてわらった。
「ほんとに、ありがと。」と、ジックはもいちど 金井にいった。
金井はまっかになってうつむき、しきりと二点入れられたことを気にした。ぼくらは 金井のせなかやかたや、頭をたたき、「気にするな。」「ドンマイ。」「ドンマイ。」
といった。クラスのみんなが、いせいのいい歌をうたう中で五回の 裏、ぼくらは最後の 攻撃をかけた。
( 後藤竜二「天使で大地はいっぱいだ」)
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