じつは地球に 読解検定長文 小5 秋 1番
じつは地球にふんだんにある空気は、地球にもともとあったものではないのです。また雨や川や海という大量の水もありませんでした。これらがどうして地球にあるようになったのかは、しばらく前までは 謎でした。
一つの説は、 宇宙空間にあるガスが地球の引力に 捕まって地球の空気になったというものでした。空気のような軽いものにも引力ははたらきます。 薄いながら 宇宙空間にガスはあるので、これはいちばんありそうな説でした。しかし 宇宙空間のガスの成分を調べると地球の空気とはまったくちがうもので、これではいまの空気の説明はつきません。
宇宙空間からのものではなかったら、地球の空気はどこからきたのでしょうか。それは地球のなかから出てきたものにちがいありません。
火山が 原因だという説もありました。いま 現在地球のなかから出てきているガスとしては、火山からのガスがあります。火山からはガスも 水蒸気も大量に出てきています。成分からいえば、火山ガスは空気と 似ています。だから地球の空気も水もすべて火山から出てきたにちがいないという説があったのです。
しかし、この説には 難点がありました。それはガスが出てきた時間の長さでした。もし火山から地球のすべての空気や水が出てきたとしたら、火山は何十億年もの長いあいだかかって少しずつ地球の空気と水をつくっていったはずなのです。なぜなら地球上で火山がある場所はごくかぎられていますし、火山の数もそれほど多くはありません。だから地球上のすべての空気と水が火山から出てくることは、あまりに大量すぎて短いあいだには 不可能だったのです。
地球で見つかった約四十億年も前の岩を調べてみると、もともとあった岩が粉々に 砕かれて海の底に積み重なって、さらにそれが熱や 圧力で変化した変成岩という岩でした。四十億年以上も昔に海があったのです。それゆえ少しずつ火山からガスや水が出てきたのでは説明がつかなくなってしまうのです。
火山が 起源だという説はこうして消え、結局、地球が生まれてから二、三億年以内というごくはじめのころから大量のガスと 水蒸気∵とをもっていたにちがいないということになりました。しかしどのように空気が生まれたのかは、まだはっきりわかっているわけではありません。地球がつくられていったときに星くずがはげしく 衝突して、ガスや 水蒸気をはきだしたり、地球がいったん 溶けていた時代には、地球をつくった材料だった 隕石(いんせき)のなかに少しずつふくまれていたガスや 水蒸気がはきだされたものだと考えられています。
このときにできたのが原始大気といわれるもので、そのころの地球は 厚い雲におおわれていたのです。原始大気には 窒素や 水蒸気はふくまれていましたが、いまの空気とちがって 酸素はほとんどなく、また 二酸化炭素がいまの何千倍もふくまれていました。まだ生物が住める 環境ではなかったのです。
やがて地球は少しずつ冷えていき、原始大気のなかにある 水蒸気ははげしい雨になって地表に 降りそそいで地球の上にはじめて海をつくったのです。そして原始大気の中の 二酸化炭素は、海水中に大量に 溶けていくことによって 減りつづけました。海水に 溶けた 二酸化炭素は、やがて 石灰岩などの岩石のなかに取りこまれて海水や大気のなかからは 減っていきました。中国の内陸に不思議な形をした岩が林立している 桂林というところがありますが、この岩も大昔につくられた 石灰岩です。その後雨の 侵食を受けて 溶けていって、いまの不思議な 姿になったのです。つまりここでは、岩のなかの 二酸化炭素がふたたび水のなかに少しずつ 戻ってきていることになります。
ところで、いま地球にある空気のうち、 酸素だけは地球のなかから出てきたわけではありません。地球の 激動期が終わって地球の表面の温度が下がってからは地球に生命が生まれ、やがて進化して植物が生まれました。これは三十数億年前のことです。その植物が太陽の光と 二酸化炭素から光合成で 酸素をつくったのです。
(島村英紀「地球がわかる50話」)
古代の世界では、 読解検定長文 小5 秋 2番
古代の世界では、花をつけない 裸子植物が 繁茂(はんも)したといわれています。次に、花をつける 被子植物が 現れ、それが広がって、今、 被子植物中心の世界になってきています。花をつけることによって動物とのかかわり合いができ、その種類の植物の 繁栄があったというとらえ方がされています。
なぜ、動物たちは花に集まるのでしょうか。いうまでもなく、花粉を運ぶためではありません。それは結果であって、目的ではないのです。
動物たちが花に集まるのは、自分たちの生活のためです。 昆虫は、自らのおなかを満たすために、 蜜を 吸い、花粉を食べに花に向かいます。また 幼虫を育てるため、 蜜や花粉を集めます。花に行ったら、たまたま体に花粉がついて、その体でまた別の花に飛び 移ります。
結果的に、動物たちは花粉を運んであげる代わりに 蜜と花粉を食べさせてもらい、花は花粉や 蜜を 提供する代わりに花粉を運んでもらっていることになりますが、両者にギブアンドテイク、 駆け引きの気持ちはもちろんありません。
AとBの植物があり、ある時、Aの中に 蜜をわずかでも作る植物ができたとします。 昆虫は 蜜のあるAのほうへ 寄り始めます。 昆虫が来てくれれば、花粉を運んでもらえます。他の自分の仲間の花に花粉がつき、子孫も 増えます。一方、 蜜が作れないBには、 昆虫はあまり集まりません。花粉が運ばれないと子孫はできません。やがてBはこの世からすたれ、 蜜の出るAの植物が生き残ることになります。
このように、進化の 過程で、動物とかかわるための有利な 条件を持つ植物が 繁栄してきました。
では、動物たちがエサにする花の 蜜や花粉には、どのような栄養があるのでしょうか。
花の 蜜は 糖分をたくさん 含んでいます。 糖分の主なものはショ 糖∵ですが、 果糖や ブドウ糖、少量の アミノ酸、有機 酸も入っています。いずれも 昆虫にとってはエネルギー 源になります。
昆虫たちの目当ては 蜜だけではありません。花粉も重要な食料なのです。花にとっては、花粉を食べられると、それだけ運んでもらえる花粉が少なくなるので不都合にも思えますが、食べられても 大丈夫なくらい、花は多くの花粉を作っています。
花粉には、栄養がたくさん 詰まっています。 たんぱく質、炭水化物、 脂肪、無機成分などの 栄養素に 富んでいます。炭水化物としてはでんぷん、ショ 糖、 ブドウ糖、 果糖などを 含んでいます。また、いろいろな アミノ酸も 含まれています。
前にお話ししましたように花粉はいわゆる 生殖細胞で、めしべに付着してから花粉管を自力で 伸ばしていくのですから、それだけの栄養分を 蓄えているのもうなずけます。〇・一ミリメートルにも満たない大きさの花粉が、十センチメートルにも達する花粉管を 伸ばすことができるのですから、とてつもない生長力です。それを 可能にする養分を持っている花粉は、それ自体栄養 価の高い 食糧ということができます。
カブトムシやコガネムシ、ハナムグリはよく花粉を食べます。ミツバチやマルハナバチは、花粉を 蜜でだんご 状に固めて、 脚につけて巣に運びます。そして、 幼虫に食べさせます。 昆虫たちにとって、花粉は 貴重なたんぱく 源であり、主食なのです。
( 武田幸作「アジサイはなぜ七色に変わるのか?」)
しかし、花が 読解検定長文 小5 秋 3番
しかし、花がいくら 甘い蜜をたくさん持っていても、 昆虫に 寄ってきて 吸ってもらわない 限り、その 魅力を伝えることはできません。まず花の 存在を 認識してもらう必要があるのです。
それには、花の色や形、 香りで、 昆虫を 引き寄せる必要があります。花にとって外見は、 昆虫や鳥を 引き寄せるための最も重要な 要素なのです。
「あばたもエクボ」ということばは、動物にもあてはまり、 彼らの植物の好みもさまざまです。だからこそ、これだけ多種多様の植物が 生存しているといえるでしょう。赤い花が好きな動物もいれば、黄色い花が好きな動物もいます。大きな花が好きな動物もいれば、小さな花が好きな動物もいます。
香りについても、人間がいい 香りだと感じるものだけが好まれているわけではありません。かぐわしい 香り、 臭い香り、その両方を好む動物がいるからこそ、多くの植物が生き残っていけるのです。
ガの仲間は、夕方から夜間にかけて活動するので、夕方から 咲く花に集まります。夜 咲く花の場合、暗くて花の色はあまり役立たないので、その分、いい 香りを発して 昆虫を 呼ぶという 特徴があります。
香りは、気温が高いほど気化します。夜は昼に 比べて気温が低くなるので、夕方から夜にかけて 咲く花は、昼間に 咲く花以上に強い 香りをもつ必要があるのです。オオマツヨイグサ、ヨルガオ、カラスウリ、スイカズラなど、夜 咲く花たちは、いずれも 甘く強い 香りを持っています。
また、夜 咲く花の多くは、白や黄色っぽい色をしています。これは、 薄明かりの中でも 識別でき、夜目にもよく 映るからです。昼間ならよく目立つ青色や赤色は 夕闇にまぎれると、ぼんやりとして色が 浮き上がってきません。 実際、夜に 咲く青色や赤色の花がないのは、こうしたデメリットがあって、 昆虫たちに注目されず、たと∵えそういう花を 咲かせる植物が 現れたとしても、 存命しえなかったのではないでしょうか。
いい 香りとは対照的に 腐ったような 匂い、いわゆる 腐敗臭を 漂わす花もありますが、そういう 匂いを好んでくる 昆虫もいます。( 中略)
人間の感じるいい 香りだけが、 昆虫を 引き寄せるとは 限らないのです。このことからも花の 香りは、それぞれ 昆虫に花の 存在を知らせる信号であって、決してヒトのためではないことがわかります。
花の中には、ほとんど 香りのしないものもありますが、こうした種類は、 香り以外の色や形などの 魅力で、動物たちを 呼び寄せています。鳥は 鮮やかな赤を好むといいましたが、鳥は 匂いには 鈍感で、鳥によって花粉を運んでもらっている花は、ほとんど 香りのないものが多いのです。
動物が花を選ぶ 基準には、 彼らの 嗜好の他に、植物との 相性もあげられます。
たとえば、ある花は、ある 昆虫にしかうまく 蜜が 吸ってもらえないような作りをしています。その 昆虫は、別の花へ行っても上手に 蜜を 吸うことができませんし、他の 昆虫がその花の 蜜を 吸いに来ても、 蜜のところまで口が 届かないようになっています。
このように、ある特定のもの同士、 非常に 密接なつながりを持っているケースは、その 昆虫にとっても、花にとっても、 互いだけが 頼りになります。
植物は、花粉を仲間の花に 送り届けるため、動物は花 蜜や花粉を 効率よく集めるため、植物と動物は、実に見事な関係を作り上げ、 共存共栄してきたといえます。
( 武田幸作「アジサイはなぜ七色に変わるのか?」)
いちばん運動会らしいのは、 読解検定長文 小5 秋 4番
いちばん運動会らしいのは、やはり、かけっこ。このごろは五十メートル競走、八十メートル競走と 呼ばれる。六人が一組になって走る。一着から三着までが、それぞれの旗のところへ 並ぶ。こういうのは五十年前にわれわれもやったのと同じだからなつかしさもひとしおである。
来賓席はテントの中にある。かけっこのコースは反対側になるから、スタートからゴールまでが一望の中におさまる。ピストルがなると、小さな足が目もとまらぬ速さで前後する。目がチクチクする。どういう 応援をしたらよいのかわからないから、手もちぶさたにながめているより手がない。
そのうちに、おもしろいことに気がついて、急に力を入れて見るようになる。というのは、スタートとゴールで、順位が大きく変わるということだ。
スタートで出おくれたこどもが、三、四十メートルのところから頭角をあらわし、六、七十メートルではトップに立ち、そのままゴールへ入る。そういう組がいくつもいくつも出てくる。はじめは 偶然かと思っていたが、どうもそうではなさそうである。たいていの組で大なり小なりそういう 傾向がみとめられる。スタートからずっとトップで通すというのは例外である。
途中で 伸びてきた子がよい 成績をあげる。もし、スタート地点から十メートルくらいのところで 優劣をきめれば、ゴールでトップになる子はおそらくおくれた方に入ってしまうに 違いない。早いところで、ゴールの順位を 占うことがいかに 危険であるか、これらのかけっこは、これでもか、これでもかと見せていた。こどもたちにはかけっこの教訓を 汲みとることはできまいが、先生たるものは 見逃す手はない。
傍におられる 温厚な校長先生に
「かけっこだけではなく、勉強にも、これと 似たことがおこっているのではありませんか」と言ったら、校長先生も深く 肯かれた。
こどもはどこで力を出すかわからない。スタートの近くで、ああだ、こうだと言ってみてもしかたがない。
小学校のかけっこはせいぜい百メートル競走である。それでも出∵おくれた子が 途中からぐんぐん出てくる。ゴールへトップで入った子がいちばん早いのは、百メートルまでのことであるのも 忘れてはならない。ゴールが二百メートルにのびれば、あるいは、ちがう子が出てきてトップに立つかもしらぬ。さらに四百メートル、千五百メートルならまた別のこどもが出てくる。
人生は七十年 余り走りつづける 超大マラソンである。学校教育はそのはじめのうちの二十年くらいにしかかかわらない。そこで、この生徒は 優秀、とか、 劣等だとかきめつけてしまうのは、百メートル競走なのに、スタートから三十メートルくらいのところの順位でものを言っていることになる。
その運動会のかけっこを見ていても、本当のレースは半分くらいを走ったところから始まるのがわかる。学校の先生は、この点について、用心の上にも用心をしたい。めいめいのペースというものがある。百メートルではビリでも五千メートルならトップに立つということはある。学校ではいっこうにパッとしなかったのが、世の中へ出て、二十年、三十年すると、目ざましい 快走を見せているという例はいくらでもある。
目先はいけない。重ねて言うが、教育は長い目を要する。
(外山 滋比古「空気の教育」)
|