ニューヨーク市は 読解検定長文 小6 夏 1番
ニューヨーク市は、世界のゴミの首都といってもいいでしょう。ニューヨークは毎日二四〇〇〇トンものゴミをすてています。そのほとんどはプラスティック製のパッケージ類です。東京は一日に一二〇〇〇トンすてています。ところでこれらのゴミはいったいどこにいくのでしょう。大半は、ゴミの 埋め立て地にいきますが、すぐにいっぱいになってしまうので、つぎからつぎへと新しい場所をさがさなければなりません。
だれもがゴミを自分の家の庭になげこんでほしくはありません。だから都市からでたゴミをいなかにもっていってすてたり、ときには外国にまですてにいくこともあります。一九八七年の三月、三一〇〇トンものニューヨークのゴミをつんだ平底船が、ノースカロライナにあるゴミの 埋め立て地に向けて 出帆しました。しかし、この 埋め立て地はゴミの受け入れを 拒否しました。ニューヨーク当局は、このゴミが 危険なものではないことの証明をもとめられたにもかかわらず、それをことわったからです。こうしてこのゴミ 運搬船は、アラバマ、ミシシッピ、ルイジアナといったアメリカ国内ばかりでなく、メキシコやベリーズまで転々としました。結局この船はゴミのすて場所をもとめて数 ヶ月大西洋 沿岸をいったりきたりしたのです。
人々のゴミのすてかたも年々大がかりになっています。かつては 洗濯機や自動車のような大型の機械までいらなくなるとゴミとしてほうりだされました。しかし、いまではこれらを 資源として活用するように 奨励されています。ノルウェーなどいくつかの国では、車を買う人は車を買った時点で 寄託金をいっしょにはらいます。その車が必要でなくなった時には金属を再利用するためにリカバリーセンターにもちこみ、最初にはらった 寄託金をかえしてもらうというシステムなのです。
現在、飲物の容器のほとんどは、再利用されていません。ゴミすて場にすてられそれっきりです。これは、 資源とエネルギーの大きなむだです。アメリカのオレゴン州では、リサイクルのための飲物の容器のデポジット制度がはじめて 法律でさだめられました。デポジット制度とは、あらかじめ容器代をふくんだ料金で商品を売り、空容器をお店にもっていくと容器代をはらいもどししてくれるという制度です。∵
プラスティックのゴミはほとんど再利用されることはありません。そのため、毎日毎日ものすごい量のプラスティックがすてられていますが、これは 貴重な石油 資源の大きなむだです。
工業先進国も、ゴミの多くはすててしまうにはあまりにも 価値の高い 資源であることに気づいています。スクラップ工場にもちこまれた自動車は、まず解体され、使える部品をとりはずしたあとにとかされ、ふたたび新しい車をつくる材料の鉄となります。ガラスビンのなかにはちゃんと 回収し、 洗浄すれば三十回も再利用できるものがあります。ガラスのかけらも、新しいガラスをつくる材料としてリサイクルされ、原料とエネルギーの節約になります。
紙もまた再生できます。一九八四年には九か国の先進国でおこなわれた紙の再生だけで、広大な土地の木がすくわれました。リサイクルされたアルミニウム 缶で新しい 缶をつくると、ボーキサイトからあらたにアルミニウムをつくるエネルギーの一二分の一ですみます。
(ナイジェル・ホークス 著 藤田千枝 監訳「 環境を 破壊する有害ゴミ」)
ところが、リサイクル 読解検定長文 小6 夏 2番
ところが、リサイクルされているゴミは家庭から毎日出るゴミのほんの一部分にすぎません。リサイクルがむずかしい理由のひとつは、ゴミをだすときに分別しなければならないところにあります。たとえばかみは、ほかのゴミとまざったとたんになんの 価値もなくなってしまいます。生ゴミはちゃんとわけてだし、あつめて、うまくくさらせれば土の 価値を高める肥料としてつかわれるか、リサイクルされるかしています。
ゴミが効果的に分別されるかどうかは、 一般市民の協力の度合にかかっています。アメリカではリサイクルのためと、 危険なゴミがほかのゴミとまざらないようにするために、紙やガラスの分別が 奨励されています。長い目でみると、リサイクルにはさまざまな 経済的な利点があります。リサイクルすれば、原料からつくるときよりエネルギーを大きく節約できるばかりでなく、大気 汚染などの公害も半分以下におさえることができます。もし、さまざまな商品がはじめからリサイクルされることを念頭においてデザインされるようになれば、さらに 経済的な効率は高まります。
ゴミのなかから 価値のある部分が分別されても、のこりの再利用できない部分をどう 処理するかという問題はのこります。家庭ゴミを 焼却処理することには、いくつかのあきらかな利点があります。 焼却したあとに 処理しやすい無害な 灰がのこるだけですし、 焼却炉からは、有効につかえる熱や電気もとれます。しかし、産業 廃棄物の 焼却と同様な欠点ももっています。 焼却炉からでてくる 煙は、 不愉快でときには有害なこともあります。そして、 焼却するという方法は、現在までのところ、 埋め立てよりお金がかかるのです。
しかし、大気 汚染の 危険や経費がかかるにもかかわらず、多くの都市では、 埋め立て地がないために、しかたなくゴミを 焼却処理せざるをえないのです。デンマーク、スウェーデン、スイス、そして日本では家庭からでるゴミのほぼ半分までが 焼却処理され、うみだされた 熱源を産業用、または近くの家庭の 暖房などに利用して∵います。
ゴミからエネルギーをひきだすさらによい方法として、 埋め立て地にすててゴミをくさらせるという方法があります。ゴミがくさるとメタンガスが生じます。そこでこのガスをパイプをとおしてあつめ、工場の燃料や、発電所のエネルギー 源としてつかうのです。ふつうのゴミからもかなりの量のメタンガスをとりだすことができます。 埋め立て地もこの方法を考えに入れて設計されるようになってきています。
(ナイジェル・ホークス 著 藤田千枝 監訳「 環境を 破壊する有害ゴミ」)
科学の進歩 読解検定長文 小6 夏 3番
科学の進歩、生活水準の向上、人口の増加など、さまざまな原因によって、二十世紀後半の地球には、急速な 汚染、 破壊がはじまりました。(中略)
地球は昼間、太陽光によってあたためられ、夜間その熱を上空に 放射しています。こうして、バランスがうまくとれているために、いくら太陽の光を受けても、地球上が 灼熱地獄になることはありません。この 放射は、赤外線と言う波長の長い、目に見えない光によっておこなわれます。(中略)
ところがいま、夜間に 放射されるべき赤外線が、温室効果ガスによって 吸収され、地球に残ってしまうため、地球の 温暖化がおきているわけです。(中略)
それでは、地球 温暖化するとどうなるか。おそらく、南極の氷がとけて、オランダのような 海抜の低い土地や島は海に 沈んでしまうでしょう。もっとも、旧ソ連のように、かなり寒い国にとっては、少しくらい 温暖化したほうが良いという考え方もできるでしょう。しかし、もっとも注目すべきことは、 温暖化で 砂漠化が進行し、これらの 地域に住む人たちは、 干ばつによる 飢餓状態に追いこまれてしまうということです。
温室効果ガスの中で、二酸化炭素はもっとも身近なものです。二酸化炭素は、自動車の燃料や 暖房の燃料として、毎日わたしたちが使っている石油やプロパン、天然ガス、あるいは石炭などの、いわゆる化石燃料から大量に放出されています。
もともと、これらの化石燃料は、生物の死がいからできたものです。石炭は 樹木から、石油やガスはエビなどの小さな動物からできたといわれています。これらの、化石燃料のもととなる生物は、空気中の二酸化炭素が 循環しているだけのことだ、ともいえるでしょう。しかし、問題はそのスピードなのです。
地球の内部に、化石燃料としてたくわえられた二酸化炭素は、何億年、いやそれよりももっと前にたくわえられたのかもしれません。いずれにしろ、 徐々に地球の中にたくわえられ、大気中の二酸化炭素 濃度は長い年月のあいだ、約三百ppm強で、 平衡状態にありました。そして、その状態で生物は進化し、 増殖し、 発展して∵きたのです。最近になって、きわめて急速に二酸化炭素 濃度は増加してしまいました。そのため、地球の植物や海は、空気中の二酸化炭素の増加した分を 吸収しきれずにいるのです。
また、いっぽうでは、ブラジルやインドネシアなどを中心に、熱帯雨林の 伐採が急速に進み、地球上の緑が減少しています。これでは、二酸化炭素はますます増えつづけるという、 悪循環におちいってしまいます。(中略)
そこで、わたしたち親子は、あることを実行にうつしました。すなわち、すでに述べた中国の 沙漠をポプラで緑化する事業です。
植物は、葉の 気孔から空気中の二酸化炭素を 吸って、光と水を使って光合成をおこないながら大きくなります。だから、 温暖化の原因の二酸化炭素をポプラに 吸わせてしまおうというわけです。そして、緑化されポプラの林に囲まれた中で農業をおこなうのです。
少なくとも、 沙漠にポプラを植えて、地球を助けることは、それほどむずかしいことではありません。 沙漠にスコップで 穴を 掘って、二メートルほどに生長したポプラの 苗を植えてやればよいのです。だれでもかんたんにできることなのです。
八十七 歳のわたしの父は、いまでも中国の 沙漠に、ポプラを植えつづけています。今度は、 若い、みなさんの番です。
(遠山 征雄「世界の 沙漠を緑に」)
日本人は笑わない 読解検定長文 小6 夏 4番
日本人は笑わないなどと言えば、すこし大げさになりますが、少なくも、日本人は表情にとぼしい、心の中の感情を顔や動作に表さない、ということは、よく言われることです。なるほど言われてみれば、そのとおりです。日本人はいつもお能の面のように、表情のない顔をしている、と言った人もいます。
また日本人は戦争が好きだ、命を 捨てることをなんとも思っていない、ということも、世界中で評判になっています。そして古くは、ハラキリ、近ごろでは、カミカゼというような日本語が、ひろく外国にまで伝えられているほどです。(中略)
あまりありがたくない評判ばかりならべましたが、実はうれしい評判だってあるのです。たとえば、日本人は 勤勉だ、朝早くから夜おそくまでよく働く、ともいわれています。また、日本人はとてもきれい好きだとか、がまんづよい、どんな苦しいことでも、歯をくいしばってよくがまんするとか、日本人は手先が器用で、りっぱな美しいものを生み出すとか、いろいろなことをいわれているのです。それがわたしたちにとって、ほんとうによろこんでいいことなのかどうかということは、よく判断してみなくてはなりません。しかし世界の人たちの目には、日本人がそういう 姿で、うつっているのです。
日本の文化について、ある外国人が、次のように書いているのを読んだことがあります。
日本は二階建ての家で、二階には西洋式の生活や 風俗や文化が、なにからなにまでそろっている。また一階にはむかしながらの生活や 風俗、日本式の文化がそのまま残っている。しかし、ふしぎなことは、その一階と二階とを結ぶ 階段がみあたらないことである。――と、そういうたとえを引いて日本の文化の 姿を 批評しているのです。このたとえも、たしかにおもしろいと思います。わたしたちの生活のまわりを 見渡しても、たとえば洋服と和服(着物)、 靴とげた、いすの生活と 畳の 暮らし、洋食と日本料理、西洋画と日本画、西洋音楽と日本音楽、――といったように、一方では日本にむかしから伝わっているものがよろこばれています。町を歩いてみても、ヨーロッパやアメリカの町にくらべて少しもおとらない、りっぱなビルディングが立ちならび、電車や自動車がめまぐるしく走っている。ところが、その町の中にも、のれんをかけ、店さきに 畳∵をしいた、むかしふうのお店があるし、 白壁の 土蔵も見られるし、また神社の鳥居がたっていたり、お寺のあたりからお 線香の 煙りがにおってきたりする。きれいな 訪問着に 着飾ったむすめさんが、デラックスな自動車から 降りても、わたしたちはあたりまえのこととしてふしぎに思いませんが、外国人の目から見ると、ずいぶんめずらしいことなのでしょう。それと同じことで、よくおすし屋や、おそば屋などの店さきに、テレビが置いてあって、そのそばに、 酉の市で買ってきた大きなくまでが 掛かっていたりする、そんな風景も、外国人にはふしぎでたまらないようです。
一九五七年に日本を 訪れたソビエトの作家エレンブルグは、次のように書いています。
「日本は、外から来るものをおどろかせる。最初にめにうつるすべてのものが、ひどく 矛盾しているように思われる。電化された汽車、いすの 背の角度を自由に調節できる、乗り心地のよい車室、そこには食堂もついている。給仕のむすめが 香の高いコーヒーを運んでくれる。着物 姿のふたりの日本のむすめが手文庫に似た小さな箱を開けて、生魚やほした 昆布をつめ合わせたお米の弁当を食べている。食事がおわると、本をとり出す。ひとりはサルトル(フランスの作家)の小説を手にしているし、もうひとりは家政の教科書を読んでいる。こんな光景を見ていると、自分がいったい世界のどこにいるのか、アジアにいるのか、ヨーロッパにいるのか、アメリカにいるのか、わからなくなる。しかも古い時代、新しい時代、さまざまな世紀がからみ合っているのだ。
日本では、どの日本人も一日のうち何時間はヨーロッパ的な、またはアメリカ的な生活を送り、また何時間かはむかしながらの日本の生活を送っている。日本人のなかには、たがいに 異なる二つの世界がいっしょに 存在している。」
わたしたちは日ごろ見なれていて、なんとも思わないことが、外国人の目にはこのようにうつっているのです。
( 岡田章雄「日本人のこころ」)
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