ある将軍が 読解検定長文 小6 秋 1番
ある 将軍が 胸を張って言った。
「わが軍は 精鋭ぞろい。敵が十二人きてもわが方の一名で 撃退することができる」
ところが 戦闘が始まると、あっと言うまもなく敗けてしまった。前の広言を聞いた人たちから、どうしたのだと問いつめられた。敗軍の 将すこしも 騒がず、
「何、敵が十三人おったんじゃ」
昔の中国に 矛と 盾を売るものがあった。その 矛をほめて、どんな 堅い盾でも 貫ける、と言い、かたや、 盾については、どんな 鋭い矛でも防ぐことができるとやった。それを聞いたある人から、おまえの 矛でおまえの 盾をついたらどうだと問われて、答えに 窮した。つじつまの合わないことを 矛盾というが、これはそのもとになる故事で、「 韓非子」が出典である。
われわれは日常、よく、この 矛と 盾を売っていた人のようなことを言っている。ただ、追究する人がいなければ、 面倒は起こらない。それを 涼しい顔をしてやってのけているものがある。ことわざだ。
『 渡る世間に 鬼はない』
性善説である。ところが、いつも 甘い考えをもっていると、ひどい目にあう。その用心に、
『人を見たら 泥棒と思え』
がある。他人はまず 疑ってかかれという性悪説の思想である。前のとは両立しないが、知らぬ顔でふたつとも 認めているところがにくい。例はいくらでもある。
『 女房と 畳は新しいほどよい』
このことわざの「作者」がはっきりしていたら、世の女性から何と言われるか知れない。「読み人知らず」のことばは、しかし、ながく消えずに残った。ところが、他方では、
『 女房と 味噌は古いほどよい』
というのがあるのも 忘れてはなるまい。ほめたくてもやはりあい∵にく「読み人知らず」である。
『 大器晩成』
『せんだんはふた葉よりかんばし』
この二つも 矛盾するようで、どちらも真である。一方を立てて他をすてるというわけには行かない。
『わが仏 尊し』
『 隣の花は赤い』
自信家はほかのものに目をくれない。 自己中心的である。わが仏だけを守って 懐疑することがない。ところが自信を欠く人間は、ことごとによそが気になる。うちの花はつまらないが、 隣に 咲いている花はすばらしいように思われる。あれがほしい。思いつめたあげく、自分のものにしてみると、さほどのことはない。 幻滅。かえって、すててきたもとのうちの花が 妙に 魅力的に見えてくる。
『始めよければ終りよし』
『終りよければすべてよし』
これではいったい、始めが大事なのか、終りが大事なのか、わからない。そういう人があるかもしれないが、そんなことはわからなくていいのだ。ことわざは、始めも大事、終りも大事、と言っているのである。
矛盾にしても、 矛もよい、 盾もよいと言っているので、 矛盾にして 矛盾あらず。白という語があって黒という語があるようなものか。
( 外山滋比古「ことばの四季」)
人間は嗅覚に関しては 読解検定長文 小6 秋 2番
人間は 嗅覚に関しては食肉類にかなわないけれど、味覚に関しては、はるかに発達している。味を楽しむということは、高等な 霊長類にすでに見られる性質である。 宮崎県の 幸島のサルがイモ 洗いをする話は、あまりにも有名だが、 彼らはイモを 洗ってよごれを落としているだけではない。今から三十年余り前に、ある天才的なメスの子ザルが最初に考案したのは、川でイモを 洗うという方法だった。おかげで 彼女は、研究者に「イモ」という名をもらうはめになったが、それはさらに、海で 洗うという方法に 発展していった。よごれを落とすだけなら一度 洗えばいいはずなのに、食べてはまた海水をつけるということを 繰り返す。塩味を楽しみながら食べているのだ。(中略)
霊長類の進化の過程で、一方では 嗅覚の退化が起こり、他方では味覚の進化が起こった。そして、味覚と相まって進化したのが色覚である。食肉類はほとんど色覚をもたないから、色とりどりの花が 咲き乱れ、チョウが 舞う草原にすんでいても、その美しさとは 無縁だろう。そういう意味では、たとえ花も木もない殺風景な場所であっても、さっき通ったイタチの 臭跡やノウサギの 糞の 匂い、あるいは 傷ついて仲間からはぐれた草食 獣の血の 匂いといった、 彼らを 緊張させ、心をときめかせるものに満ちあふれていれば、それこそがわれわれの感じる美しい風景に相当するものなのだろう。
では、そもそも、 霊長類において味覚と色覚が進化したのはなぜなのだろうか。 霊長類は果実を好んで食べる。その果実というのは、 熟していないときには葉と同じ緑色をしていて、いわば葉の中に身を 隠している。しかし 熟すにつれ、 私を食べて下さいと言わんばかりに、赤、黄、 紫など葉に対してめだつ色になってくる。その上当然のことながら、 甘味も増す。つまり、 霊長類の色覚は 熟した果実を見つけやすいように、味覚は味を楽しむことができるように進化したのだ。∵
さて、固いセルロースの 層におおわれた、果実の種子は、そのままのみこまれると消化されずに 糞とともに 排出される。人間は決まったトイレをもつけれども、遊動生活をしている多くの 霊長類は、行く先々で 糞をしている。その結果、種子はあちらこちらに種まきされているのと同じことになる。しかも 糞という肥料つきで。実のなる植物は、ミツバチなどに受粉の大役を任せる一方で、 霊長類や鳥には種まきをさせているわけである。
それに対し食肉類は、一定の巣をもっているし、たいていは 糞をする場所を決めている。うまくしたもので、果実は 彼らに食われることがない。
さて、果実を食べながらも 糞をまき散らしてくれない 霊長類である人間は、一定の住居を持ち、 狩りをし、肉食をする。しかし同時に、味覚と色覚が発達していて、果実を好むという 霊長類らしさはもち続けている。われわれが食肉類をまねた 霊長類だということは、肉や魚に味付けをして食べたり、料理の配色に気を使ったりすることによく 反映されている。
異常に 甘い物好きなホモ・サピエンスであるところの 私は、デパートやスーパーのお 菓子売り場に行くと、まるでお花畑にでもいるような気分になれる。それに、おめあてのお 菓子を買うと、もうそれだけで幸福感でいっぱいになってしまう。こういう感情は、いったいどういうところから生まれてくるものなのか常々不思議に思っていたのだが、あるとき次のようなことに気がついた。お 菓子のパッケージの色は、 圧倒的に赤や黄 系統が多い。青や緑のパッケージなんて、ほとんどと言っていいほどない。この赤や黄色というのは、 熟した果実の色と 一致するではないか! 果実の皮をむく代わりに 包装紙をめくると、中から出てくるのは、にせの果実というわけだ。
(竹内久美子「ワニはいかにして愛を語り合うか」)
私の友人に 読解検定長文 小6 秋 3番
私の友人に長い間アメリカに留学した男がいる。 彼の話によればアメリカの生活で一番 困ったことの一つは、アメリカ人の日本人に対する先入観であった。日本人はみな庭園の整理が上手だと思われているから、 彼も庭園の 専門家としての意見を絶えず問われた。日本人はみな水泳が上手だと思われているから、 彼がプールに入ると多勢の学友が見物に来、大いにがっかりしたこともある。以上のようなアメリカ人の日本人に対する先入観の例はおびただしい。
日本に来てから、 私も度々日本人の外人に対する先入観にぶつかったことがある。例えば、 私のことが新聞に出るときには、必ず「 碧い眼」という 形容詞も出る。初めのうちは、 私は何とも思わなかったが、 段々疑問が高まり、万一 私の眼が 碧くなかったと思って鏡で眼の色を調べた。だが、ちっとも 碧くはなかった。かわいらしい先入観であるが、 私の眼の 碧さを楽しみにしていた人が本物を見れば、がっかりするであろう。
こんな 無邪気な先入観にも 困ることもある。 私は西洋人としては小さくて、日本人としても大きい方ではないが、西洋人はみな 巨人だという先入観があるから、 私が日本式の宿に 泊るときは、ほとんどいつも 巨人向きのスリッパや 巨人向きのどてらをくれる。そして 私の貧弱な身体を見て、「やっぱりあちらのお方は 体躯が 立派どすな」と(皮肉ではないように)いうおばあさんもいる。赤面するほかはなかった。
以上の場合には、実物を見ても先入観の方が強いから、実物に応じて 処置をとるかわりに、実在のない先入観によって 巨人のスリッパを出したり、 私の「 立派」な 体躯を観賞したりすることが多い。 私だけなら、もちろんどんな 間違ってもかまわないだろうが、もしも日本人が外国へ行って自分らの先入観を通じて外国を見、先入観を外国の実在として報告すれば、非常に 困ることがあると思う。
一例を挙げよう。「英国は 耐乏生活の国だ」という 誠にありがたい先入観がある。英国へ行く日本人の多くは、ロンドンの料理屋で∵まずい食物を食べて、「なるほど、イギリスの 耐乏生活だな」と思うらしい。戦争直後には「 耐乏生活」は事実であったが、現在はイギリスの料理屋の食事がまずいのは、コックさんやお客に帰すべきもので、 耐乏生活とは全く関係がない。戦前に比べれば今の料理屋はましだという英国人さえいる。しかし、 一般の英国 民衆は日本人とちがって、おいしいものにあまり興味を持っていない。ある戦前の調査によれば農村の人たちにとって 酢をかけたカンヅメの 鮭は何よりの 御馳走であった。 狭い海峡の向うにあるフランス人となんとちがうことだろう。ともあれ、 耐乏生活の時代も今も英国ですばらしい 御馳走になるのは決して不可能ではない。 一般英国人向きの料理屋にはないだけの話である。
「英国人は 紳士だ」というのは結構な先入観であり、たしかに 根拠のないことではない。しかし、もしその必然の帰結として、他の外人は 紳士的でないことになったら、また 困る。 私自身についていえば、 私はアメリカで生まれて、アメリカで育てられてから、 渡英してケンブリッジ大学の教師になった。 私がケンブリッジ大学の教師だから、英国人だと日本人が思うのも無理はない。大体の場合は、しばらく話しあってから日本人の相手は「あなたはアメリカ人とは全然ちがいますね。やはりイギリスは 紳士の国です」といってくれる。しかし、初めから 私がアメリカ人だと知っている日本人は 私の 紳士らしさにうたれないようである。同じ 私が先入観によって、 紳士と見られることもあるし、単なる 毛唐と見られることもある。アメリカ人であることを 隠す誘惑に負けやすい。
(ドナルド・キーン「 碧い眼の 太郎冠者(かじゃ))
求めよ、さらば開かれん 読解検定長文 小6 秋 4番
求めよ、さらば開かれん
ネコやイヌがドアの前でしきりに鳴くとき、ぼくらは 彼らが「開けてくれ」といっているのだと理解する。ところがものをむずかしく考える人がたくさんいて、そのような理解は正しくないと教えてくれるのである。
たとえば、言語学者の レーヴェスという人は、「イヌは開けてくれといって 吠えるのではなく、 閉じこめられているから 吠えるのである」といった。どうやら 彼は、ある表現によって未来のことを支配しようとするのは、人間においてこそ可能なのであって、イヌやネコのような動物にはそんなことはできない、 彼らにできるのは現状の報告だけである、と考えていたらしい。
これは、一時かなりの説得力をもったいいかたであって、ぼくもそうかなと思ったことがある。
けれど、動物行動学者のローレンツはこういうことをいっている――のどのかわいたイヌが水道の 蛇口に前足をかけて、ワンワン鳴いているとき、それは人間の言語にかなり近いことをやっているのだ、と。つまりこのイヌは、 疑いもなく、「早く 蛇口をひねって、水を飲ませてくれ」といっているのだ。
ドアの前でネコが鳴くのも、それとまったく同じである。とくに、 彼らがトイレにいきたいとか、子どもが先に外へ出てしまってすごく心配であるとかいう切羽つまった 情況で、ぼくらの顔をじっと見ながら、ニャア……と鳴くとき、それは レーヴェスよりローレンツのいったことにはるかに近いだろう。
パンダの発明
ただ鳴いて「開けてくれ」とたのむだけでない。オスネコのパンダはもっとおもしろいことを発明した。
つまり 彼は、人間のやっていることをつぶさに観察して、ドアを開けるとき人間たちは必ずノブにさわっている、ということを発見したのである。ここから 彼はこういう 解釈をした――したがって、ドアを開けたいときは、ドアのノブにさわればよい。
そこで 彼は、部屋から外へ出たいとき、後足で立ちあがり、体と∵前足を思いきり 伸ばして、前足の先でノブにさわることを始めた。
おもしろいことに、そのときはほとんどの場合、無言である。ひょこひょこっとドアの前へ走っていって、ひょいと立ちあがり、ノブに前足をふれるのだ。
それを見てぼくらはすぐドアを開けてやるから、パンダは自分の発明にすっかり自信をもってしまった。一日何回でも、開けてほしいときは必ずこれをやる。(中略)
ところが、これがほんとうにノブというものの働きを理解した上での行動であるかどうか、いささかわからなくなるような場合もある。
パンダが外へ出かけていって、庭から帰ってきたことがあった。食堂にぼくらがいるのを見て、パンダは入れてくれという表情をした。そして、ガラス戸に手をかけて立ちあがったのである。
三 枚引きのガラス戸には、もちろんノブはない。かぎはあるが、外側からは何も見えない。その何もないところへパンダは前足をかけたのである。もちろん、ガラスの部分でなく、かぎのあるべき木 枠のところにである。ただ、その高さはドアのノブと同じだった。けれどこれも、ちょうど全身を 伸ばしてとどく高さだから、たまたま 一致しただけである。そのときパンダは地面から体を 伸ばしたのだから、内側にかぎや引き手のあるところよりは、ずっと低い位置に足をかけたことになる。
だとすると、パンダにとっては、ノブがあってもなくても、体を思いきり 伸ばして前足でさわれば、それが開けてもらえるという 認識しかなかったのかもしれない。ノブが 云々という理解はなかったのではないか?
人間以外の動物を人間的に理解すること、つまり 擬人主義をきらう人は、このような 解釈をよしとする。
けれど、人間だって、たとえば横断歩道を 渡るときには手を上げて、などと教わると、鉄道の 踏切を 渡るときも手を上げてゆく人がいるのだから、似たようなものではないだろうか。
(日高 敏隆「ネコたちをめぐる世界」)
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