ある人は、生きることの 読解検定長文 中2 冬 1番
ある人は、生きることの本質は演劇的なものであると考える。ある人は、人生とは 砂漠のようなものであると考える。徳川家康は、重い車を坂に 押し上げるようなのが人生だと考えた。徳川家康のこの考えは、多分に、功利的なものを 含んでいて、生きて仕事をする努力は車を坂に 押し上げるように絶えず努力をつづけていれば成功する、という教訓につながっている。
しかし同じような形だが、ギリシャ神話のシジフォスのことを持って来て説明したアルベール・カミュは、それをもっと人間の原罪のようなものに結びつけて、生きることの本質として説明している。シジフォスはギリシャのコリントの王で、 狡猾貪欲な人間だったので、死後 地獄で 罰として、岩を山の上まで 押し上げることを命ぜられる。その岩は、頂上まで届くと、そこからころがり落ちる。するとまたシジフォスはそれを 押し上げねばならない。人間は、何人もその内部に持っている 狡猾さと 貪欲さの故に、生きる上で何等かの岩を 押し上げねばならず、しかもその岩は頂上に達すると必ず転がり落ち、 彼はまたそれを 押し上げることをくり返さねばならない。人間であることの本質の中に、そのような苦行が 含まれている、というふうにカミュは考えた。
こういう風に、ある人が、自己の体験から人生についての 一貫した論理を作ったり、または別のもの、 砂漠とか転がる石などによってそれの本質を説明したとき、それは思想と呼ばれるのである。思想と呼ばれるものは、必ずしも体系的な論理的構造を持たなくてもいい、しかし、それは、ある時の体験、ある事件を説明するのに役に立つだけでは真の意味の思想とは言われない。いろいろな体験、様々な事件にぶつかったときにも、その同じ考えでもその事件の本質を説明して、本人が満足し、やっぱり今度の体験においても人生は 砂漠のようなものだと分かったとか、人生は劇場のようだと、 繰り返して考えるとき、それは一つの思想と呼んでいい。
なぜなら、その人は常に、そういう 比喩の中に、生きることの本質を見出しているのであり、これから起こるであろう将来のことをも、その考えかたによって待ち受けるからである。そのようなとき、それはその人にとっての思想である。しかし、本人だけがそう∵思っていて、その人の息子も 隣人も 同僚も 誰もが、それを人生についての 唯一の真実として受け容れず、同意もしないとき、それは、 一般的な意味での思想とはならない。ある考え方によって、自分だけでなく多くの他人をうなずかせ、より真実な人生の本質を理解させる役目をするとき、その考え方は、はじめてその人から 離れて、客観的な一つの「思想」として存在しはじめる。「色は空である」 即ち、ものの形はその本質ではない、と 解釈されるこの言葉に真実を見出す人が多いとき、それは一つの思想として、人から人に伝わり、時代から時代に語り伝えられて、実在というものについて人を考えさせたりする。そして、人間のあり方の本質を理解させるものとして深い本当の 知恵がその言葉に 含まれていれば、それは長い生命を持ち、多くの人々に認識を深めることに役立ち、教育の上でも役立つことになる。
このように思想というものは、限られた個人的の臨時のものから、人類の全部または一部をなす多数の人々に真実を教え、生存についての安定感を 与え、よりよき生活に導く力を持つようなものに 到るまで種々さまざまである。私たちが、自分の体験を整理して、それを人に語ったり、文章に書いて発表するとき、私たちは、このような考え方、見方、整理の仕方として思想を、高い低い、 狭い広いにかかわらず持っている。 即ち事実についての考え方を持っている。そのような考え方がすべての人の中にあって、書いたり話したりする時だけでなく、体験それ自体の中でもその人を導いているのだ。
( 伊藤整「体験と思想」)
ここの主人は 読解検定長文 中2 冬 2番
そこでふと谷の方角を見ると、そちらは 壁になっていた。それだけなら特に不思議はないのだが、そこには昔窓があったらしいのを、割合近ごろになって 塗りつぶしたように思えた。そうだとすればこの小屋の内部が 薄暗いのも、あながち外の日光が強いばかりではない。
「あそこに窓があれば明るいだけでなく、谷間の景色が見られるのに、それにしてもなぜ。」
そんな事を考えていると、主人が再び姿を現した。主人は口元で笑いながら、 彼を見つめたまま、
「何年になるかな、そう八年ぶりだ、八年ぶりではじめて人間に会ったのだ。まあお急ぎでなければ今晩は 泊まって明日お 出掛けなさい。一番近い人里まで丸二日もかかるのだから。しかし八年も人を見なかったとは。」
そういって男は何がおかしいのか、大声を出して笑った。それが非常にたのしそうなので、 彼も声をあげて笑った。ああこの人は世捨て人なのだな、そう思えば、品のいいこの男の態度も、清らかな生活も納得がゆくようであった。それでこの男の知らないであろうこの数年の出来事を色々と話してやった。主人は話の内容よりも、元気な青年を見ながら、人の言葉を聞くのが楽しくてたまらないのだという風に笑いながら、フンフンとうなずいていた。帰省して帰ってきた息子に対する父親のようである。話が一段落すると、
「ところであなたは将来何をおやりになるのかな。」
「私は絵を学ぼうと思います。」
「何、絵を。」
突然老人の表情は変わった。今までの行いすました 好々爺の 隠者の顔は 一瞬にして 物怖じした 醜い老人の顔になった。急に 皺と白い毛がふえたかと思われる。 彼は何か悪い事を言ったのかと思ったが、訳がわからないままに口を閉じた。しばらくの間 沈黙が二人の間に流れた。 今更のように 渓流の音が部屋の中にひびいた。やがて老人の顔が平静をとりもどしたので、 彼は、
「私が何か悪い事を申し上げたのでしょうか。」
「いや 御心配なく。」
しかしそれ以後は、 彼はようやくこの老人なり小屋なりが得体が∵知れなく思えてきたので、話も 渋りがちになった。それに反して、老人は急に能弁になって、この辺の川魚のよい事や、近くの山で春になると採れる 蕨の味のよい事や、秋になると朝から晩まで一冬分の 薪を集めねばならぬ事を話し出した。しかしその間にも折々老人の顔を 恐怖とも 焦燥ともつかぬ 影が走った。 又一方 彼の心は次第に疑問の雲が 濃くなっていった。そしてついには話がとぎれて、二人はその 沈黙の中でいらだった顔を見せて 睨みあってしまった。やがて老人はそのいらだった顔の 奥から 渋い笑いをしぼり出して、
「 駄目ですな、やっぱり。実ははじめてお見かけした時からもしやと思って、しばらく見ていたのですが。あなたがあの谷を 眺めている後ろ姿に、昔の私の姿を見たように思いました。私もあなたの年ごろにこの谷を発見して、この谷を絵絹に表そうとしたのです。ところが 駄目なのです。無才といえばそれまでですが。私の 描く画はみな 人臭くて、あなたがさきほど 御覧になった山水の明るい厳しさは、どうしても絹に出てこないのです。この山水は生命を入れる余地のないほど 鋭いものですのに、私の絵は木を担った 樵夫、糸を垂れている 漁人、岩山に酒を飲んでいる 隠士がいても 邪魔にならないどころか、それのある方が一層、自然なような絵なのです。先ほども大笑いしましたが、この前に人に会ってから八年、はじめてこの山に入って三十年になります。 妙なものでこの谷川の音の聞こえない所まで行くと何か忘れ物をしたように思われるのです。もう最近では、この谷を 離れる事ができないだけに、見るのもいやになってきました。あの 壁も元は窓でしたが、最近 塗りつぶしてしまいました。窓があったころは、ここからの 眺めは全くすばらしいものでしたけれど。」
主人はそういって、まるで 壁を 透かしてそとの山河を見ているように目を細めた。その顔は 鋭く淋しかった。その 庵室に 一泊した 彼は、何か画に 描くことに 恐怖と不安を感じながら、老人の教えてくれた道をたどって人里へ出た。 ( 三浦朱門「 冥府山水図」)
明治以後のわが国の文化は 読解検定長文 中2 冬 3番
明治以後のわが国の文化は 翻訳文化である。 西欧の文物を 摂取して、これを消化するのに 懸命の努力で 払われてきたが、 翻訳とはどういうことかという問題が最近までほとんどとり上げられないでいたのは興味ある事実である。
まず、 翻訳といっても、すべてのものが 翻訳されるわけではないが、このことがあまりにもしばしば忘れられている。ヨーロッパの言語と日本語とのように言語の性質がいちじるしく異なっている二国語間において、 翻訳されうる部分は 普通に考えられているよりもはるかに小さなものでしかない。
そのうち、もっとも 翻訳しやすいのは、パラフレイズを許容する、思想内容、論理、事実などであろう。かならずしも 妥当な考え方とはいえないが、かりに、言語を内容と形式に二分するならば、 翻訳とは形式を 犠牲にして内容を伝えようとする作業にほかならない。 翻訳そのものがすでにそのような前提に立つ以上、 翻訳文化において、内容が尊重されるのは当然のことである。形式とか形式的というのはつねに否定的な意味合いにおいてのみ使われる語であった。
ヨーロッパ文化は 優秀であるとなると、ヨーロッパの言語に 含まれている思想内容もすべてすぐれているのだと決めてしまう。それがどういう表現形式をとっているかは問題にされない。思想中心の書物においてそうであるばかりではなく、文芸においても思想がもっとも重視されるという 傾向が固定する。文学においては、思想が大切であっても、それはナマの思想ではなく、表現という 衣裳をまとったものであることは 理屈でわかっていても、その 衣裳を訳出するのは不可能である。また、表現の 微妙な味わいまで感得することは 翻訳文化の草創期にあっては期待し難いことでもあった。
まず、かいなでの 翻訳でわかるところだけで満足するほかはなかったのである。それが思想内容というわけだ。そしてこの思想が何よりも重視されるのである。芸術においてすら思想が最優先し、すぐれた芸術作品であっても、いわゆる思想がはっきりしていないという理由で 却けられるということも 珍しくない。
思想があればよい作品だというのは、どんなひどい料理をしてあ∵っても材料に栄養があれば、おいしく食べるべきだというのにも似た乱暴な考え方である。いかにおいしいものでも料理の仕方がまずければ食べものにならない。そんな 素朴なことでさえ、 翻訳文化に 埋没した時代の人たちにはわからなくなってしまっていたのであろうか。
それでも、まあ、思想だけはとにかく移植し得たようにわれわれは考えてきたのだが、果たして思想を本当に 翻訳し得たであろうか。思想はきわめてしばしばそれを表現する言語と密接不可分である。言葉の形式を捨ててしまっては、思想だけを正しく訳出することすら困難なのではないか。わが国では明治になるまでいわゆる 翻訳――原語の形式をすてて意味を伝える 転換方式としての 翻訳をほとんどしたことがなかったことが思い合わされるのである。
たとえば、中国大陸から 渡来した文化を理解するのに、 翻訳にはよらずに、原文を生かしながら読む訓読法を案出したのである。これは語順のいちじるしく 違う二言語間の理解のための処理としてきわめて 賢明なものであるということができよう。訓点読みが原語の形式、音声を大きく 歪めているのは言うまでもないが、それでもなお、原語の一部分は保たれているから、形式がまったく不問に付されることはない。それだけいわゆる 翻訳よりはすぐれているとも考えられるのである。
欧米の学術書の 翻訳など、論理と思想が伝わればよいような場合において、きわめて難解な訳文になっていることがすくなくない。原文を見ると達意の文章になっていてすこしのよどみもないのに訳文では何のことかわからないということがおこるのである。そういう例を見るにつけても、 翻訳可能なはずの内容も、日本語とヨーロッパ語のような構造の異なる言語の間では 充分に移し切れないのではないかということを考えさせられる。
( 外山滋比古「省略の文学」)
旅に出て 読解検定長文 中2 冬 4番
旅に出て未知の風景に接し、感動する前に、「ああ、絵はがきとそっくり。」というセリフを口にする人をよく見かける。また、最近のように飛行機利用のたびが盛んになると、若い女性が下界を見ながら、「まあ、地図とそっくりね。」という 歓声をあげる。しかし人間は、飛行機を発明してから百年とは経過していないのに、今や、 驚異的な速さのジェット機を考え出し、それが人間を苦しめようと 疲労させようとおかまいなしに、ますますスピードを速めようとつとめている。一昔前は船でインド洋を横断して、はるばると 欧州を目指したのに、それが、現在はどうだ。あっという間に目的地に着いてしまう。
思うに、人々は旅というものへの導入部を持つことが少ない。この導入部が実は旅だったのだが、今では目的の地へ着くことだけが旅のように思われてしまった。そして、それが旅だと思いこんでしまう現代人は気の毒だ。乗り物は極めて速くなり、時間の節約といちはやく目的地へ着くことは実現されたが、旅情はそれに比例するとはいえないからだ。
そのうち、人々はもうわかってしまっているから、旅に出る必要はないなどといいかねない。旅とは未知のものを知るだけの 行為ではないのである。旅をして、「絵はがきそっくりの風景」という感想を口にするような人にとっては、いっそ旅などしない方がいいのだ。
旅は心の中でもできる。 病床に 臥している人でも、現実にそこを旅した人よりも旅情を味わっている場合がある。それは想像力が豊かだからだ。逆に、小説の中に 描かれた風景や土地にあこがれてそこへ行き、現実には失望したといって帰ってくるような人もいる。それは、小説家がうそをついたのではない。現実が先行して実景を変えたのでもない。
旅情というものは、意外に、その人の心の中にあるものだということである。ある土地へ旅をして、何が心に残ったか、胸に手をあててそれを思い返してみるとわかる。旅先での、絵はがきや小説では体験できなかった未知の人との出会い、その人のおしゃべりやアクセント、そして、そのとき自分が味わった何ともいえない感情、そうしたものが旅の忘れ得ぬ一こまではなかったか。そういうイメージは常に自分の心の側にある。心が風景をみるのである。
( 岡田喜秋「旅に出る日」)
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