古代から中、近世にかけて 読解検定長文 中2 冬 1番
古代から中、近世にかけて、公家、武家をとわず支配者の手で馬を通す街道がつくられ、馬をつかって荷物を運び、人が移動するようになると、街道筋には乗馬の客、 荷駄をつれた客を 泊める馬宿の設備が必要となる。牛はどこでも平気で横になり、人間といっしょに野宿できるが、馬は神経質で 臆病なため、夜は馬宿のような安全な場所につないでやらねばならない。それに牛は道草で 充分であるが、馬の旅には飼料の手配が必要である。古く旅宿のことを 旅籠屋)とよんだが、 旅籠とは馬料をいれる 籠のことで、 旅籠屋とは馬料を用意し、馬をつれた旅人を 泊める旅館という意味であった。 薪を用意し、 宿泊の場所を提供するだけで旅人に 自炊させ、 薪の代金( 木賃)をとる木賃宿より上等の旅宿とされたのがはじまりであったという。
馬を手厚く飼うのはむかしから武人のたしなみであり、その息災を 祈る厩祈祷は古くからある。夏には 蚊帳をかけて 安眠させるなど、よい馬ほど神経質で、人間以上に手数を要した。乗馬はかならず二頭そろえ、 交互に乗り 替えるものとされた。明治、大正の陸軍の高級将校たちも、朝の出勤時に乗った馬は午後は休ませ、夕刻の退勤時には乗り 替えの馬を使用した。これも武士の作法として伝来のものであったという。
したがって馬をつかえるのは、これだけの手数をかけたうえ、なおかつその機動力を利用したい人、利用しなければならない人にかぎられてくるのは当然であった。中世の 鎌倉街道が、村落とはかならずしも関係なく、等高線にそって走っているのもそれが馬をつかう 鎌倉御家人の道である以上、必然の姿であったといえる。古代の間道も、開設されたときは、おなじような姿をしていたろう。だがこうした馬の道は、馬を通すために 沢山の人手を必要とし、街道の要所要所に宿駅、馬宿の設備がつくられなければならない。そして、近世に入ると、 一般農村の生活水準がしだいに向上し、各地城下町の 繁栄がすすみ、人と商品の流通が 庶民生活の次元においても活発になりはじめた。このことから、農耕に馬をつかうのは 依然として少なかったけれど、従来のように支配者たちの政治的、軍事的目的のためだけでなく、 一般の商品や旅人を運ぶために馬を∵つかうことが多くなった。 駄賃収入をめあてに手数と資金を投じて馬を飼い、牛にくらべて上等の飼料をたべさせ、街道に出て運輸業に従事するものが急速に増加した。
民間における商品の流通は、十七世紀末、 元禄ごろから 顕著になりはじめた。そのころ本街道の宿駅に常備されている伝馬は、もともと公用物運送のためのものであったから、公用の荷物が 立て込めば民間商品はあとまわしになる。公用の 駄賃は低く 押さえられていたから、公用の運送で生じる赤字が民間のものに 転嫁されるし、荷物は宿駅ごとに人馬を 継ぎ立てるので、損傷することが多い。信州の中馬はこの欠点を補うために発生し、最初は農家の 農閑期における現金収入のためにはじまったのが、やがて専業化した。一人の馬方が四頭の馬を追い、馬宿に 泊まりながら数十里はなれたところまで直送したので、 途中の荷傷みもすくなく、運賃も通常の宿 継伝馬の半分に近かった。そのため、街道の宿場の問屋たちは 既得権益を 侵害するものとしてことごとに 圧迫したので、中馬はしだいに宿場のある街道をさけ、間道をえらぶようになったという。
それゆえ近世における中馬道の成立は、交通運輸史上、重大な変革であった。それまで存在した馬の通う道は、いずれも支配者たちが 彼らの政治支配と軍事上、経済上の必要から、強力な政策的努力によって、上からつくりだされたものであった。これに対して民間から、 純粋に民間物資を馬で運ぶ道がつくられた。支配者から 賦課された義務ではなく、自らの才覚で馬を飼い、 駄賃稼ぎをする人、その人たちを馬ごと 泊める家が、馬の道筋に発生したわけである。ここにいたって本街道はもちろん、中馬道のようなものまでふくめ、馬の通る道は名実ともに社会の表街道となった。はじめ馬の道は、支配者の手で村落とはあまり関係ないかたちで設定されたのに、この道筋に人と物資が集められ、町や村の生活がかけられて、社会の経済と、文化の発展をここで担うことになった。
しかしこうした表街道の 繁栄の背後にあって、旧来の馬の通れない道は、けっして 消滅したのではなかった。中馬の 活躍した信州を例にとっても、 新潟県西部の 糸魚川と信州の松本とを結び糸魚川∵街道は、いちおう 平坦な道であったが、いくつかの小さな 峠が馬の通行をはばんだので、もっぱら牛がつかわれた。幕末、ここを通って北国の塩を信州に運んだ荷は、年間八〇〇〇 駄をこえ、太平洋岸、三河の塩を信州に運んだ中馬の数より多かったという。人と牛しか通れない旧来の道は、 繁栄してきた馬の通る表街道からは遠い。その意味では、表街道につらなる、 賑やかな人里からはなれた、 辺鄙で、 険阻な間道となり、 陰のうすい存在になりはじめたのは事実である。しかし、この間道も、いっぽうではそれ自身で裏街道のネットワークをつくり、おなじように表街道の 賑わいから忘れられかけた村々を直結して、その生活をひっそりと支えていた。裏街道という言葉は、この時代には現代の私たちの感じるほどうら 哀しい響きはもっていなかった。近代的な交通機関が馬の道でさえ古いものとして切り捨てるまでは、裏街道もまた、りっぱに社会的効用がみとめられ、生きて働いていた。
(高取正男「日本的思考の原型」)
伊代はおぼれていた 読解検定長文 中2 冬 2番
伊代はおぼれていた。もう 沈む寸前といってもよかった。体が大きいぶんだけ、動きも大きく 鈍くなりゆっくりになっていた。洋がよっぽどプールへ飛びこんで救助しようと思った。けれど、ここでそうしたら、泳げるようになるのは 大幅に時間がかかる。あるいは 恐怖が倍加する中で、泳げなくなるかもしれなかった。
(あと十秒、待とう)
たぶん、ぎりぎりの線だろう。へたに声をかけてもまずかった。洋は目に力のありったけをこめて 伊代を見つめ見守った。
( 腕を動かしてくれ、足で水をけってくれ。ひどい先生やと、おれを 憎んでもよいから、 憎しみを力に変えてくれ……)
洋はしばらくぶりに 祈った。 誰にということではなかった。そしてまばたき一つか二つする間、 祈りながら自分もおぼれかけていた。
小学生のときだ。泳がしたろか。兄ちゃんが言ってくれ、洋少年はパンツ一枚で兄ちゃんの後について川っぷちにおりていった。紀の川の青い深い流れを見ると洋少年は足がすくんだ。兄ちゃんは水泳部の選手サンであり、みごとなポーズで流れに身を 躍らせた。河童になって 浮きあがり川ぎしにつないであった 小舟にはいあがった。洋を手招き、 舟にあがらせた。
「どないしたら泳げるようになるのン、兄ちゃん……。」
無邪気にたずねる洋に、兄ちゃんはいきなり、強い一 突きをもって回答した。ひとたまりもなく、洋は流れにまっさかさまに落ちこみ、水をのみのみ、水をかきむしった。ようやく顔がつき出せて、こんどは犬になって水の中を走り、やとの思いで 舟ばたに片手をかけると、兄ちゃんがその指を一本ずつ外してくれた。再び 沈みながら、水中に洋は 憎しみのことばを 吐いた。
「兄ちゃんのひとごろし。」
しかしそれはみんな 泡になって消え、声にはならなかった。夢中で水の中でもがき続けるうちに再 浮上でき、こんどは兄ちゃんのいる 舟がこわくて、遠くの岸辺へ泳ごうとあせっていた。泳ぐというより、流されるかっこうでようやく大きな岩にしがみついた。気が∵つくと、パンツを流していた。 舟に兄ちゃんがいなかった。パンツ、パンツと洋は 涙声を張り上げた。パンツは下手の方から兄ちゃん河童が片手に高くさし上げながら泳ぎのぼって取ってきてくれた。
「洋、泳げたやないか。」
兄ちゃんに言われて初めて自分が泳いでいたのに気がついた。 荒療治ながら、兄ちゃん独自の特訓であった。
洋はおぼれていた。それから死力をつくして 浮かび続けようとしていた。流れが洋を運ぶ。へたをすれば遠い遠いところまで運ばれかねなかった。洋はもがき続け、決してあきらめなかった。
(ぼくはまだ子どもやぞ、子どものうちに死んだりしてたまるか)
という気持ちで必死にさからっていた。
伊代は、はっと目を見開いた。
「先生、助けて――助けてちょうだい。」
口の中で 叫んでいるのに、声になっていなかった。体が 鉛みたいに重く、 藻になったみたいにゆうらりゆうらりとしか動いてくれない。
(わたし、 藻じゃなんかじゃないわ)
伊代は心の中で 叫び、手足を動かした。わたしが 藻でなくても、 藻にからまれて動かなくなりそうな気がした。
「せんせい……。」
水の中からせんせいの姿を探した。自分を見つめるせんせいの目が青い光を帯びて 輝き、 伊予をそっと包んでくれた。 伊代は青い光の中で急に体が楽になり、こんどはバレーでも 踊っているように、ゆったりと手足が動かせるようになった。すると体全体がぐんと 浮かびあがった。体全体が前に進んだ。これが泳ぐということかもしれない……と 伊代はぼんやり思い、少しずつ力をいれて本当に泳ぎ始めていた……。
(助かった)
祈りが通じた気持ちで、洋は両手を合わせるかわりに両手をこぶしにしてかたく 握りしめていた。 握りこぶしの中から 冷や汗がしたたり落ちた。
(今 江祥智「牧歌」)
わたしは中学(一中)から 読解検定長文 中2 冬 3番
わたしは中学(一中)から高等学校(三高)へかけて京都で育ったので、その 頃の私はまことに京都的な少年であったらしい。まあ言ってみれば 物腰の 柔らかい少年として日曜日には 嵐山などを歩きまわっていたらしく、現に 大沢池あたりで友だちと 香りのよい 菫を 摘んできた 記憶がいかにもそれらしく残っている。
しかしなんといってもいちばんなまなましく残っているのは、三高の入試で、もちろん旧制の、しかも全国に七つしかなかった、いわゆるナンバースクール時代のことだから、競争はそれなりに相当はげしかった。
私はどうにか第一志望の京都に もぐり込むことができたが、発表された時の有頂天なよろこびは一 生涯忘れることができない。これはひとつには当時高校の関門さえ通れば、大学へはほとんど無試験で入学できたのだから、高校の入学ということは当時の青年にとって、いわば一生に一度の難関だったためでもあろう。しかしそれと 匹敵するくらいに思い出されるのがあの大文字の火なのだから、私の 記憶の中にともっているあの火の照明度はかなり強いものだといわなくてはならない。
もっともこのことは今の学生にはたぶんあてはまらないことだろう。今のように市内の 随所に鉄骨がそびえているのでは、大文字の火も 繁華街のビルのすきまからのぞく明月かなにかのようにさぞみすぼらしいものになり下がっているだろうし、赤や青に 明滅しているネオンがくれに 眺めたのではこれも不景気な、色あせた存在だろうとなんだか気の毒になるが、私の学生の 頃はそんなものではなかった。
その 頃の京都全市の人々がかたずをのんで今か今かと待ちかまえた大文字山は、どこからでもなんのさえぎるものもなく、東方の空を黒々と大きく限って横たわっていた。街の灯もさすが電 燈ではあったが、とっぷり暮れた夜の都には、まあどちらかといえば、点々としたさみしいものだった。そこへ真っ赤な 炎が急に一つまた二つと燃えはじめ、またたく間に 炎炎と一大文字が夜空の一角を領してしまう。
近所の屋上や路ばたの 涼み台などあちこちから 感嘆の声が聞こえ∵る。それはたぶん京都の市民たちがいっせいに挙げる 歓声の一続きみたいなものであったろう。もっとも、何十年と大文字を見ていない私が、せんえつにこんなことをいってはどうかと思うが、近ごろの大文字がネオンに 圧倒されたり、ビルの間にはさまって見えたとしても、そんなことであの火をつまらぬものになり下がったなどと、けいべつしたくはない。
あの文字どおりに燃えさかる 炎にはどんなみごとなネオンのまばゆい動きにも代えがたい情熱がかくされている。その情熱こそは当時の青少年を学問へかりたてたその同じ情熱だった。またあの 炎炎としてともりかつ消えていく自然のままの光の色あいの中にはなにかしら今日の 蛍光燈などには求められない 無邪気純真な 真剣さが宿っていた。あの 真剣さこそが当時の入試受験生をひたむきに勉強させた同じ 真剣さではなかったか。
私は老人の口ぐせをまねて自分の若い 頃のよさを手本にして、いまどきの若い者の功利主義やふまじめをお説教しようなどとはけっして思わない。ただ、私の時代のあの大文字が今もなおあんなにも情熱をこめて、 真剣に何十年前と同じ姿で燃えているであろうなら、私の愛する青年たちの胸にもまたいたずらにビルにあこがれたり、ネオンにだまされたりしないで、その昔と同じような情熱で学問を愛し、 真剣に入試とたたかう心がまえだけは生かし続けてほしいナアと 祈るばかりである。
(高木 市之助「詩酒おぼえ書き」)
人間は目ざめているかぎり、 読解検定長文 中2 冬 4番
人間は目ざめているかぎり、いつも頭のなかに何かを 描いています。もしここに一枚の白い カンヴァスがあって、それに人間があれこれ 思い描くイメージが、そのまま映しだされるとしたら、いったい、その絵はどんな作品になることか。人間の頭のなかほど神秘的なものはない、と言ってもいいと思います。
そこでいま、私は自分を実験台にして、自分の頭のなかを正直に 描いてみようと思います。といっても、まさか白い カンヴァスに私の頭のなかにあるイメージを映しだすわけにはゆきません。やむを得ず、それを何とかことばで書き記してみようと思うのです。
ところが、このような試みは、けっして容易ではありません。なぜなら人間が頭に 思い描いているものは、なかなかことばにならないからです。人間は何かを考える際に、ことばで考えています。ですから、考えていることを、そのままことばにすることは、かんたんのように思えますが、頭のなかで考えているそのことばは、けっして完全なことばなのではなく、いわば、ことばの断片のようなものです。とぎれとぎれのことばが、 浮かんだり、消えたりしている、と言ってもいいでしょう。それを、そのまま 原稿用紙に書き写してみても、当人以外には、いや当人にとってさえ、意味不明のことばの 羅列になってしまい、とうてい、理解できる文章にはなりません。
フランスの生理学者ポール・ショシャールは、頭のなかで考えているそのようなことばを「内言語」と呼んでいます。つまり、人間はことばで何かを考えているのですが、そのことばは、話したり書いたりすることばとはちがった「内言語」だ、というのです。したがって、人間は、つねにふたつのことばを持っているということになります。考えるときに使う「内言語」と、話したり書いたりするときに用いる通常のことば――ショシャールそれを「外言語」と名づけます――です。
このふたつの言語は、一見、おなじように思われますが、じつはそうではなく、両者はまったく異質な 脈絡のなかにあるのです。ですから、「思ったとおりに書け」と言われても、そうかんたんにゆきません。文章を書くということは、「内言語」を「外言語」に 翻訳することであり、その 翻訳の作業が何よりも大変なのですから。
しかし、人間の頭のなかには、ただ「内言語」だけが 漂っている∵わけではありません。たしかに、 抽象的な 概念は「内言語」によって意識されていますが、そうした言語とともに、さまざまなイメージが 明滅しているのです。いや、言語よりも、イメージのほうが主要部分を 占めているように思われます。
たとえば、あなたが、リンゴを食べたい、と思ったとします。あるいは友だちに会おうと考えたとする。その際、あなたの頭に、まずリンゴということばが 浮かんだのか、それともリンゴのイメージが先に現れたのか。友だちの顔が先か、友だちという言葉が最初か。私はいまそれを自分に 即して考えてみたのですが、どうも、はっきりしません。イメージが先のようでもあるし、ことばがまず 浮かんだような気もします。
このように、イメージといっても、きわめて 漠然としており、さらによく考えてみると、イメージは「内言語」と一体になっているようにも思えます。しかし、イメージの背後に「内言語」があったとしても、あるいは「内言語」の土台にイメージが形成されていたとしても、イメージと「内言語」とは、やはりどこかちがっている。イメージとは画像のようなものであり、「内言語」とはことばだからです。
(森本 哲郎「ことばへの旅」)
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