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 私はいろいろな植物の中で 読解検定長文 中2 秋 1番
 私はいろいろな植物の中でねぎに強くひかれる。ねぎぐらい身近で、優しくて、それでいてたくましいものを私は知らない。これは全く妥協だきょうがない。青と白と二つの色に徹してっ て、いい加減な装飾そうしょくなどかえりみもしない。土中に入れば入るほど白に徹してっ 、空に向かえば向かうほど青に徹するてっ  。どんなときでも独自のこう徹するてっ  。我が家の粗末そまつな台所にあってもねぎねぎだし、豪華ごうか卓上たくじょうの料理にあってもねぎねぎ以外のものではない。
 これは何でもないようでいて実に鋭いするど 。無数のねぎ穂先ほさきが空に向くと、すばらしい鋼鉄のような威厳いげんを持つ。それでいて触れるふ  と一つ一つ実に柔らかやわ  なのである。ねぎの集まったところはまさに庶民しょみん怒りいか である。
加藤かとう秀俊ひでとし「暮らしの思想」)

 昔から本所ほんじょにはおいてけぼりというほりがあって、魚を釣りつ に行ったりすると、ほりの底で太い声で、「おいてけ、おいてけ」と声がするので、釣りつ に来た人は魚も釣りつ 道具もなんでもおいていかないといけないのだそうです。いったいその声の主はどんなバケモノなのだろう、山椒魚さんしょううおみたいにひらべったい姿をしているのか、がまがえるのかっこうをしているのか、いろいろとコワイ妄想もうそうがひろがって行きました。縁日えんにちの夜店も、世田谷の田舎では見られない賑やかにぎ  さで、しんるいの徳平おじさんはステテコ一枚ではげしくウチワでを追いやると、たいていボクに三十銭くらいくれました。当時の三十銭は大金で、ボクも何から先に買おうか迷ったのです。
(谷内六郎ろくろう「心のふるさと」)

 折り紙は、一枚の紙さえあれば、のりやはさみを使わなくても、ただ折ってゆくだけでいろんな形のものがつくりあげられる。つまり、素材を全然傷つけずに、素材をそのまま使って生かせるのである。これは、およそ世の中に無意味なもの、無価値なものは存在しないと考える日本人の考え方に通ずるものであろうか。生きとし生∵けるものすべてに――生物たると無生物たるとを問わず――それぞれに存在理由があると思うからこそ、たとえ一枚の紙であっても、はさみを入れることがはばかられる。この世の中にむだなものはありえないがゆえに、一見むだと思われるものにも、使用価値を見いだす。一枚の反古ほごも、折り紙にすることで、新しい生命が与えあた られる。

 考えてみれば、いま、われわれが目にし、手にする古い文化財でも、それが実際に作られ、使われたときには、まるで異なった印象を与えるあた  ものだったといった例が、ずいぶん多いのではないかと思う。例えば、あおによしの奈良ならの都だ。青いかわらに赤い柱。いま見れば、俗悪ぞくあく至極しごくのものだったかも知れないし、金閣寺などは金ぴかで、我慢がまんのできない建物だったかも知れない。歳月さいげつの経過が、おのずから違っちが た美をつけ加えることもあるに違いちが ないが、昔にもどって、最初の姿を見ることができれば、よりよい理解の助けとなるであろう。

「この石が動かせるかい。」
次郎じろうはまごつきながらも、とっさにそんな照れかくしを言うことができた。そして、言ってしまうと、不思議にかれのいつものおうちゃくさがよみがえってきた。
「何だい、こんな石ぐらい。」
 仲間の一人がそう言って、すぐに石に手をかけた。石は、しかし、容易に動かなかった。するとみんながいっしょになって、えいえいと声をかけながら、それをゆすぶり始めた。間もなく、石の周囲にわずかばかりのすき間ができて、もつれた絹糸を水にひたしてたたきつけたような草の根が、まっ白に光って見えだした。

(下村湖人「次郎じろう物語」)
           
 

 モウシが公然と 読解検定長文 中2 秋 2番
 モウシ(「もしもし」と同じ呼びかけの言葉)が公然と、だれ聴かき れてもよい言葉の前触れまえぶ であるのに対して、あまり聴かき せたくないナイショ話のことを「こそこそ話」というのはどういうわけであろうか。それはわかりきっている。こそこそと話をするからだ、という人があるかもしれませんが、その低い話し声を、どうしてまたコソコソと形容しはじめたかが、実はやっぱり不審ふしんなのであります。有名な芭蕉ばしょうおう俳諧はいかいの中に、(こそこそと草鞋わらじを作る月夜ざし)という句もありますが、これはわらなどの軽くすれる音から出たもので、ちょうど落ち葉の中を歩く音を、がさがさと形容するのも似ております。人が耳のそばで何かいう時には、そんな声は出さないと思います。多分はいま一つ、別に此方こちらには理由があったのを、後にだんだんと融合ゆうごうしてしまって、コッソリというような副詞も生まれ、またはコソコソ泥棒どろぼう、略してコソドロなどという新語もできたものでしょう。こんなつまらぬたった一つの言葉でも、気をつけて見ると、やはり面白い歴史が付いています。古い文学では私語はササメゴト、またはササヤキといっております。地方にはそれがまだ残っていて、たとえば九州の北部は今でも一般いっぱんにソソメキバナシといい、ソソメクというのがその動詞であります。中部地方でも福井ふくい市の付近ではソソヤク、丹波たんばでももとはソソカウといっておりました。私の想像では、サ行すなわちSの子音が、どんなに低くても耳につきやすいところから、人がこういう言葉を作り出したので、ソシルという動詞なども、やはり最初はS音を気にする者が言いはじめたものと思います。コソコソ話の方も同じ系統と言うことはできますが、これにはなお一つ、新しい心持ちが加わっているようです。すなわち単なるサとかソとかの音が耳立つという以上に、特にコソという「てにをは」が盛んに使われる物言いという意味で、どうも私にはご婦人の責任のように感じられます。これまでの国文法の先生たちは、コソもゾも同じ価値、ただ偶然ぐうぜんの使いわけのように教えていますけれども、この二つのものはだいぶ感じがちがい、また口にする人の種類もちがいます。中古に女流文学が流行してから、コソの用法が急に発達した如くごと 、今でも気をつけていると、男の人はあまり使わず、また使うとややめめしくもきこえます。これに反して女性は小さなことにも力を入れて、それこそ、私こそ等を連発しようとします。しかも遠慮えんりょがちに小さな声で、人の∵顔を遠目に見ながら、何かというとこの「こそ」を使うのですから、つまりコソコソ話の専門家ということになるので、少なくともこの一つの戯語ぎごを考案したのは、それを皮肉った男たちの所行にちがいありません。地方の類例を比べてみますと、滋賀しが県の東部では私語をモノクソといい、徳島県の北部ではモノコソイウというのがささやくことであります。モノすなわち言語ですから、その下に付けたコソは「ひそかに」の意味でなく、むしろそのコソをよく聴くき 時の感じに近づけんがために、わざとコソコソと二つ重ねたのかもしれません。こういういたずらは男はなかなか上手です。たとえば山形県の一部では、女が告げ口をするのを「なし売る」という隠語いんごがあります。あの地方の若い女たちは、何か力を入れてものを言うときに、句の終わりにナシという語を添えそ ます。それを知っている人なら、この複合動詞はよくわかりかつ面白いのです。コソコソの意味もそれと同様に、いやコソばかりを耳立たせる話ということで、それも今日となっては過去の遺物であります。 

柳田やなぎだ国男「毎日の言葉」)
           
 

 「母語」ということばに 読解検定長文 中2 秋 3番
 「母語ぼご」ということばに私がとりわけこだわるのは、じつは、日本語にはいつのころからか「母国語」ということばが作られて、それが専門の言語学者によってさえ不用意にくり返し用い続けられているからである。 
 母国語とは、母国のことば、すなわち国語に母のイメージを乗せた煽情せんじょう的でいかがわしい造語である。母語は、いかなる政治的環境かんきょうからも切りはなし、ただひたすらに、ことばの伝え手である母と受け手である子供との関係でとらえたところに、この語の存在意義がある。母語にとって、それがある国家に属しているか否かは関係がないのに母国語すなわち母国のことばは、政治以前の関係である母にではなく、国家にむすびついている。そのためにこれを区別せずにいつでも「母国語」を用いていると、次のような奇妙きみょうなことが生ずる。 
 あるとき新聞が「単一民族国家」と思い込まおも こ れている我が国において、その例外をなすアイヌ人やオロッコ人が存在することをあらためて思い起こさせてくれる、次のような記事をのせた。 
 「(沖縄おきなわでおこなわれた教研全国集会でのこと)『平和と民族』分科会では、民族衣装に身を固めた北海道の少数民族ウイルタ(オロッコ)の北川源太郎げんたろうことダーヒンニェニ・ゲンダーヌさんの母国語による訴えうった が静かな波紋はもんをひろげた。それは長年、民族差別の中で苦難の生活を過ごしてきたウイルタの人たちが自らの手で、民族の誇りほこ と文化を守ろうとする自立の宣言であり、それは同時に日本を単一民族国家としてきた日本人の意識の変革を迫るせま ものでもあった。」
 私はここに報じられたゲンダーヌさんの行動はもちろんのこと、また、それを支持して、ひろく世に知らせるために記事にした、この文章の書き手にも共感する。そもそもこういう記事は、言語的少数者が置かれている状況じょうきょうにたいする深い理解なくしては書けないものである。それだけに、「ゲンダーヌさんの母国語」にはめまいを感じるほどの当惑とうわくをおぼえたのである。 
 ゲンダーヌさんは北川源太郎げんたろうという日本名の持ち主であるから、たぶん日本国籍こくせきの人であろう。だとすれば、ゲンダーヌさんの母国∵は日本で、その母国の言葉は日本語であるから、オロッコ語のことを母国語と言ってしまってはまずいのである。ゲンダーヌさんのことばは、この「母国語」とするどく対立するところの非母国語、非国語であるからこそ、ここにその訴えうった を報じる意義があったのではなかったか。 
 ゲンダーヌさんが用いたことばは、国家とは対極にあって、その国家によって滅ぼさほろ  れ、滅ぼさほろ  れつづけてきた、かれ自身のうまれながらの固有のことばなのである。それを母国語と呼ぶ矛盾むじゅんが、これほどゲンダーヌさんに共感を寄せる記者に気づかれず、さらに数百万の読者からもとりたてて疑問があらわれなかったことに、ことばとその話し手との関係に関する、日本人の平均的な理解度があらわれてはいないだろうか。すなわち、ことばはすべて国語であると考える日本人の考えかたに根深く宿っているこの盲点もうてんこそは、この記事がまさに指摘してきしてきた、「日本人を単一民族国家としてきた日本人の意識」をありのままに示しているのである。 
 ゲンダーヌさんは日本人の国家、すなわち母国がその使用を保障してくれないことばを生まれながらのことばとして持っている。学校、役所、裁判所のどこにも、そのことばのための場所はあてがわれていない。だから、そのことばはどんなことがあっても母語とはいえないのである。もしかして太古にあったかもしれない、まぼろしの母語を思い描くおも えが 以外には。 

(田中克彦かつひこ「ことばと国家」)
           
 

 都会にはむろんのこと 読解検定長文 中2 秋 4番
 都会にはむろんのこと、日本の町々には、ある大切な要素が欠けている。 
沈黙ちんもくである。静寂せいじゃくである。 
 (中略)
     わが屋戸やどのいささ群竹むらたけ吹くふ 風の 
          音のかそけきこの夕べかも 
 夕風にそよいで、かすかな葉ずれの音をたてている群竹。作者の大伴家持おおとものやかもちは、その静寂せいじゃくにじっと耳を傾けかたむ ている。このような、かそけき音にひかれる心の姿というものこそ日本人特有の姿だった。古池に飛び込むと こ かわずの音、ほかの国の人たちが聞いても、おそらくなんの感興かんきょうもおこさないであろうような、そのような音を、日本人が何世代にもわたって味わい続けてきたのは、それが「音」だったからではない。「静けさ」だったからなのだ。全山に降る蝉しぐれせみ   、岩にしみ入るようなそのせみの声に芭蕉ばしょうは耳をとられ、そして、その一句に「しずかさや」という適切な初語を置いた。 
 静かさというものは、音のない状態をいうのではない。音が音として、くっきり浮かび上がるう  あ  、そのような空間と時間をさすのである。音は「静寂せいじゃく」というカンバスに描かえが れて、初めて「音」になるのであり、同様に静かさというものは、そこに音がくっきりと浮かび上がるう  あ  ことによって「静寂せいじゃく」となる。 
 湯のたぎる音が茶室の静寂せいじゃくをささえ、懸樋かけひの水音が庭の閑寂かんじゃくをいっそう深いものにする。かぼそい虫の声が秋の夜の静けさを呼び、炭火のはじける音が冬の午後の沈黙ちんもくを生む。こうした「音」と「静寂せいじゃく」のこよなき調和の場こそ、日本人の愛した生活の空間であり、暮らしの時間だった。 
 だが、「文明」が進み、「文化」が発展するのと歩調を合わせて、静寂せいじゃくは私たちから、反対に遠ざかってしまった。日本の都会の、日本の町々のどこに、「群竹のかそけき音」を耳にしうる場所があろうか。ほんのわずかでも、ほんのいっときでも、静かに思いにふけることのできる空間や時間が、都会の、町々のどこに残されているというのか。 
 全く逆なのである。私たちの文明とは、静寂せいじゃく騒音そうおんに変えるこ∵とだったのであり、私たちの文化とは、「かそけき音」を拡声器でただやたらに増幅ぞうふくすることだったのだ。 
 日本の町々には、便利さのための、ありとあらゆる施設しせつが造られている。そして、これからも造られようとしている。たった一つ、「静寂せいじゃくの空間」を除いて。 
 現代の日本の文明は、静寂せいじゃくだけはつくりだすことができないのである。いや、つくりだせないのではなく、つくりだそうと思わないのだ。静寂せいじゃくな空間とは、空白な空間であり、むだな空間だと思っているからである。自然は真空をきらうというが、現代の日本人は沈黙ちんもくをきらう。きらうのではなくて、恐れおそ ているのだ。だから、少しでも、静寂せいじゃくの場所があれば、あわててそこを騒音そうおんでふさごうとする。 
 武器は拡声器である。駅でも、交差点でも、公園でも、横丁でも、喫茶店きっさてんでも、ホテルのロビーでも、大学の構内でも、寺院でさえ、今や騒音そうおんなしには存在しえない。岩にまでしみ込む  こ ほどの「しずかさ」の力を、日本の社会は、とうとう文明によって追放してしまった。そして、人々を沈黙ちんもく恐怖きょうふから救い出し、静寂せいじゃくの不安から連れ出した。 
 さあ、もう安心するがいい。どこにいても、騒音そうおん付き添っつ そ ている。どうだ、寂しくさび  ないだろう……。 
 こうして、人々は、騒音そうおんに取り巻かれ、その中で安心して憩いいこ 眠るねむ 。 
 しかし、これほど夢中になって音を製造したにもかかわらず、私たちは、実は何一つ「音」を聞いていないのである。聞こうにも、聞くことができないのだ。私たちのまわりに、いったい、生活のどんな音があるというのか。 
 折にふれ、人々は、夜明けとともに聞こえてきた納豆売りの声、夕べとともに響いひび 豆腐とうふ屋のラッパの音を懐かしむなつ   。だがそれは、実をいうと、物売りの声やラッパの音そのものを懐かしんなつ   でいるのはなく、そうした生活の音をしみじみと聞くことができた「静かさ」への郷愁きょうしゅうなのである。現に、それに代わる生活の音なら、今∵だってまわりにたくさんあるではないか。けれど、私たちには、もうそれが聞こえない。なぜなら、音の一つ一つが、くっきりと浮かび上がっう  あ  てくるような静かな空間、沈黙ちんもくの時間を捨ててしまったからだ。そして、すべての音を、「文化」の名のもとに、単なる騒音そうおんにつくり変えてしまったからである。 
 島根県の山あい、津和野つわのの町で、私は久しぶりに忘れていた「音」を聞いた。それは、町のいたるところを流れる用水のささやきだった。 
この町には、九千人という人口の十倍ものこいが放されているのだ。 
 夜、八時、私は宿を出た。祇園ぎおん町を通り、新町通りを抜けぬ 殿町とのまちを過ぎ、大橋を渡っわた た。どこを歩いても、足もとに用水の鳴る音がついてきた。それはまさしく津和野つわのの町の音だった。 
 三百年来、この町の人たちはこいを飼ってきた。「食べない、捕らと ない、殺さない。」といって。だが、人々はただこいをだいじにしたのではない。こいをだいじにすることによって、この用水の音を大切にしてきたのだ。水の「声」に耳を傾けるかたむ  ことのできる静かさを。 
 大橋に立って、私は改めて思う。 
 日本の暮らしのなかで、どんな「かそけき」音でも聞くことができ、それに耳を傾けるかたむ  ことができる。そのような空間をつくること、そのような時間をもつこと、これこそが本当の文化、本当の生活なのではなかろうか、と。

(森本哲朗てつろう「日本のたたずまい」)