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 また、虫のことだが 読解検定長文 中2 秋 1番
 また、虫のことだが、のみの曲芸という見世物、あの大夫だゆう仕込みしこ 方を、昔何かでよんだことがある。のみをつかまえて、小さな丸い硝子がらす玉に入れる。かれは得意の足で跳ねは 回る。だが、周囲は鉄壁てっぺきだ。さんざん跳ねは た末、しかしたら跳ねるは  ということは間違っまちが ていたのじゃないかと思いつく。試しにまた一つ跳ねは てみる。やっぱり無駄むだだ、かれ諦めあきら ておとなしくなる。すると、仕込みしこ 手である人間が、外からかれ脅かすおびや  。本能的にかれ跳ねるは  駄目だめだ、逃げに られない。人間がまた脅かすおびや  跳ねるは  無駄むだだというのみの自覚。この繰り返しく かえ で、のみは、どんなことがあっても跳躍ちょうやくをせぬようになるという。そこで初めて芸を習い、舞台ぶたいに立たされる。 
 このことを、わたしは随分ずいぶん無慚むざんな話と思ったので覚えている。持って生まれたものを手軽に変えてしまう。のみにしてみれば、意識以前の、したがって疑問以前の行動を、一朝にして、われ誤てり、と痛感しなくてはならぬ、これほど無理不尽りふじんさは少なかろう、と思った。 
「実際ひどい話だ。どうしても駄目だめか、判った、という時ののみの絶望感というものは――想像がつくというかつかぬというか、一寸ちょっと同情に値する。しかし、頭かくしてしりかくさずという、元来どうもかれ馬鹿ばか者らしいから……それにしても、もう一度跳ねは てみたらどうかね、たった一度でいい」 
 東京から見舞みまいいがてら遊びに来た若い友人にそんなことを私は言った。かれは笑いながら、 
のみにとっちゃあ、もうこれでギリギリ絶対というところなんでしょう。最後のもう一度を、かれとしたらやってしまったんでしょう」 
「そうかなア。残念だね」わたしは残念という顔をした。友人は笑って、こんなことを言い出した。 
「丁度それと反対の話が、せんだっての何かに出ていましたよ。何とかばち、何とか言うはちなんですが、そいつのはねは、体重に比較ひかくし∵て、飛ぶ力を持っていないんだそうです。まア、の面積とか、空気を振動しんどう数とか、いろんなデータを調べた挙げ句、力学的にかれの飛行は不可能なんだそうです。それが、実際には平気で飛んでいる。つまり、かれは、自分が飛べないことを知らないから飛べる、と、こういうんです」 
「なるほど、そういうことはありそうだ。――いや、そいつはいい」私は、この場合力学なるものの自己過信ということをちらと頭に浮かべう  もしたが、何よりも不可能を識らぬから可能というそのことだけで十分面白く、のみの話による物憂ものうさから幾分いくぶん立ち直ることができたのだった。 

尾崎おざき一雄かずお『虫のいろいろ』)
           
 

 大学生の「私」は 読解検定長文 中2 秋 2番
 大学生の「私」は長兄ちょうけいの次男りょう(五さい)の死の知らせを受けて長兄の家へやってきた。りょうは長男の卓也たくや(小学校三年生)と家の近くの川原に行き、小舟こぶねに乗ってほたるを見ていたが、ほたるを見るのに飽きあ 卓也たくやふねをゆらせて遊んでいるうちに川に落ちて亡くなったとのことであった。卓也たくやが心配だから一緒いっしょてほしいと「私」は長兄に頼またの れた。 
叔父さんおじ  、お父さんはぼくのことをなにか言っていましたか」 
卓也たくやの目が、私の顔にすえられた。 
「いや、なにも話はしていない」 
私はズボンを脱ぎぬ ながら答えた。 
「お父さん、何か変なんですよ。ぼくが八時ごろお線香せんこうをあげに行ったら、あっちへ行けというように手を振るふ んです。お客さんが帰ってからにしろという意味なんだろうと思ったけど、きつい目をしていたんです」 
 卓也たくやの顔に、おびえの色がうかんだ。 
忙しいいそが  からさ、そんなことを気にするんじゃないよ。さ、寝よね う」 
 私は卓也たくやかた抱くいだ とベッドに歩み寄った。そして、下段のベッドのタオルケットをまくりこしを下ろした。 
 卓也たくやは、黙っだま たままはしごをふむと上のベッドにあがった。 
 私は、部屋の中を見まわして立ち上がると、窓を閉め部屋の灯を消した。そして、頭をすくめながらベッドに身を横たえた。背丈せたけ伸びの てからも使えるように作ったらしく、ベッドは決して窮屈きゅうくつではないが、ふとんに子供の甘いあま においがしみこんでいて、りょうのベッドにていることが落ち着かなかった。 
 家の中は森閑しんかんとしていて、人声もきこえない。長兄夫婦が、りょうの遺体のそばで黙然ともくぜん 座りつづけている光景が思い描かおも えが れた。 
ほたるがたくさんいたんです」∵ 
 卓也たくやのつぶやくような声がした。 
 私は、卓也たくやが前夜のことを思い出していることに肌寒はださむさを感じ、やはりりょうの死がかれの頭を占めし ていることを知った。 
「そうか、それは珍しいめずら  ね」 
 私は、卓也たくや哀れあわ に思いながら低い声で答えた。 
「どこで生まれるのかな。ほたるには川を飛び越えると こ  力がないんですね、両方の川岸あたりだけを飛んでいるんです」 
 卓也たくや仰向いあおむ て身を横たえているらしく、声が上方のやみにとけこんでいる。その声には、愁いうれ に似たひびきがふくまれていた。 
 私は、黙っだま ていた。卓也たくやの頭には、川で起こった事故の記憶きおくがうず巻くようにあふれているのだろう。返事をすれば、卓也たくやの意識は一層記憶きおくの中にのめりこんで感情をたかぶらせ収拾のつかないものになるおそれがある。 
「水ってこわいですね」 
「そうかね」 
 私は、しかたなく答えた。 
りょうが落ちたら水しかないんです。のみこんでしまうんですね」 
 卓也たくや訴えるうった  ように言った。 
 弱ったな、と私は思った。卓也たくやは、仰向いあおむ ながら、やみの中に光を放って飛び交うほたると黒黒とした川の水を思い出している。それは無理もないことなのだろうが、その記憶きおくから一時的にも解放させてやりたかった。そのためには、私が沈黙ちんもくを守るのが良策だし、卓也たくや眠りねむ が訪れてくることが望まれた。 
 卓也たくやの声はそれきり絶えたが、かれがベッドで身じろぎもせず目を光らせているのが感じとれた。 
 しばらくして、私は上のベッドで卓也たくやの起き上がる気配に気づき、振り返っふ かえ た。 
「暑いんですけど、窓を開けていいですか」∵ 
 低い声が、もれた。 
 私は、眠っねむ ているふりを装って返事をしなかった。 
 卓也たくやは、手をのばし静かに窓を開けた。そして再びはしごをふむとベッドに身を横たえたようだった。 
 静寂せいじゃくが、ひろがった。冷えた夜気やきとかえるの声が部屋の中に流れこんできている。私の目はさえていた。卓也たくやが目をひらいている間は眠っねむ てはならぬ、と自分に言いきかせていた。 
 卓也たくや寝返りねがえ を打つベッドのきしみ音につづいて、かすかにあくびをする気配がきこえた。体に安らぎがわいた。かえるの声が、波の音のように高低を繰り返しく かえ ている。 
 眠気ねむけ四肢しし麻ひま させはじめた。私は、上方でかすかな寝息ねいきが起こるのをたしかめてから目を閉じた。 

吉村よしむら昭『ほたる』)
           
 

 一般に若い人々は 読解検定長文 中2 秋 3番
 一般いっぱんに若い人々は青春というものを一つの特権と考えている。何をしても、何を望んでも、自分たちには許される、いや許されなければならない、という自信を持っている。これはまだためしてもみない自己の可能性を無限大に見つもって、それを頼むたの 心理であるとともに、子が親に甘えあま 、その庇護ひごを当然のこととして期待するように、人生に甘えあま ている態度、人生を甘くあま 見ている態度でもある。若い人々が高い理想を持ち、大きな希望をいだくことはもとより妨げさまた ない。何ごとをもなしうるという自信を持つことも許されよう。しかしかれらがいったんその理想の追求を始めたとき、かれらがかちえたものはことごとく自己の実力によるものであり、かれらがなし得なかったことはことごとく人生の不合理に基づくものであると速断してよろしいであろうか。いうまでもなく世の中には青年の力を借らずしてはなし得ないことがたくさんある。社会の改造のごときはそのゆうなるものであろう。しかし自分の追求するものが自己の実力の外にあるとき、それより生じる失敗や悲劇の責任を自己以外のものに転嫁てんかすることは許されない。青年の犯す過失は、それが青年であるということによって許される場合がしばしばある。しかしそれはあくまで許されるのであって、その責任の解除をこちらから要求する権利はまったくないのである。 
 わたしは青年も自らの過失によってしたたかに傷つくことを、また傷つくことを恐れおそ ないことを希望したいのである。もしかれらの追求する目的が大きく高い場合には、かれらの流す血は実に美しく、そのような過失は断じて悔恨かいこん伴うともな ことはないはずである。それは若気のあやまちなどではもちろんなく、青春時代の誇りほこ ということができよう。 
 しかしながらもしかれらが、たとえ自ら意識しないにしても、他人を傷つけるばかりであって、自らはなんの犠牲ぎせい払わはら ないとしたら、その記憶きおく終生しゅうせいかれらを苦しめ、それを思い出すたびに穴があれば入りたい悔恨かいこんを起こさしめるに相違そういない。だが青春の時代には常に自己を中心にしてものごとを考えやすいために、自己の言動がいかに他人を傷つけているかについてはきわめて鈍感どんかんなのである。それとともに自己の能力の限界を知らないことからくる傲慢ごうまんさ∵のために、他人から与えあた られた好意や親切にほとんど不感症ふかんしょうである場合が多い。子を持ってはじめて親の恩を知るように、人の情けを身にしみて感じるのは壮年そうねん期を過ぎてからである。青年期が忘恩の年齢ねんれいであるといわれるのは理由のないことではない。若い人々がかれらに与えあた られる好意を自己の才能に対する評価と考えやすいことはいちおうむりからぬこととしても、率直に感謝の気持ちを表現し得ないことを青年の弱点と考える反省が望ましい。 
 青年が自己の能力の可能性を無限大に見つもる傲慢ごうまんさは、正直に自己のぶんを守って着実に生きてゆく人々に対する軽侮けいぶの念を生みやすい。これは最もいましむべき点である。人間のほんとうのえらさというものは、人生のさまざまの経験を積んではじめて理解されるのであって、その人の力量はいかにはなばなしい生き方をしたかというよりも、いかに正しく誠実に生きたかによって定まるのである。真に尊敬すべき人を青春時代に発見することのできなかった人は、生涯しょうがいの不幸というべきであろう。 

(河盛好蔵「青春について」)
           
 

 カラーテレビは教育上 読解検定長文 中2 秋 4番
 カラーテレビは教育上よくない、白黒テレビのほうがよいという意見があることを聞いた。白黒テレビだと子どもたちは自分である程度まで着色したイメージをえがきうるし、それはさまざまでありうる。ところがカラーテレビだと子どもの想像力がはたらく余地がない。想像力は創造性の基本だから、つまり創造性の伸長しんちょうをさまたげる結果になるのだという。 
 白黒テレビが、見本なしのぬり絵のように、色についての子どもの想像力をかきたてるという効果はあるかもしれない。だがその場合、色にかんする想像力を裏づける、いわばそれに対応する、経験の蓄積ちくせきがなければならない。そうでないなら、白黒の画面を着色の画面に転化したイメージをもつことは困難だし、かりにそうしたことがなされたとしても、そこに成り立ったイメージは、きわめて単純でまずしいものでしかないだろう。子ども向けの怪人かいじん怪獣かいじゅうテレビを見ているとき、これはおとなでも同様だと思わざるをえないことがある。 
 ところで、われわれ人間に色彩しきさいの豊富さを教えるまず第一のものは、自然である。山も海も川も、一つ一つの植物も動物も、なんと複雑で微妙びみょう色彩しきさいに富み、陰影いんえいによるその変化を示すものであることか。私はガラパゴスの海で、空をあおいで熱帯鳥ねったいちょうが羽ばたきもせずにけっていくのを見たとき、その白と空の青とがともに単色であるように見えながら、繊細せんさい色彩しきさい交響こうきょうを心につたえてくるのにうたれた。 
 絵画は、どれほど自然に忠実であろうとしても、自然の色彩しきさいのことごとくをそのまま再現することはできない。そもそも、絵画はそのようなことを目標とはしないであろう。たとえば写実的な風景画であっても、それは自然からの抽象ちゅうしょうをもとにした創造あるいは再創造であるにちがいない。そして人間は、極度の抽象ちゅうしょうや単純化のなかに新たな美を発見する能力をそなえている。現代絵画にあらわれているくすんだ単色あるいはそれに近い色彩しきさいでの画面の構成は、色盲しきもう的な夜行動物の世界だといえなくはない。人間にとって、それもまた一つの美である。 
 色彩しきさいばかりではない。ものの形にかんしても同様である。抽象ちゅうしょう∵画における、ちょっと見れば単純な一本の曲線とか、交錯こうさくする数本の直線とかにも、その背後には画家に感受された豊富な外界があるはずである。外界の音響おんきょう、たとえば風のいぶきや鳥のさえずりと、音楽の創造とのあいだにも、同一の関係が指摘してきされるであろう。ある点では、音楽における抽象ちゅうしょうと構成ないし再構成とは、絵画の場合よりいっそう高度かもしれない。 
 さて、現代において人間の生活環境かんきょうから、自然は急速に追放されつつある。それにとってかわっているのは、人工の世界である。開発され都市化のいちじるしく進んだこの国土の風景を一見すれば、それは瞭然りょうぜんとしている。巨大きょだいなビル、新家屋、舗道ほどう、高速道路、そのほか目に映るすべてのものは、色彩しきさいも形状も、自然と対比すれば単純化され抽象ちゅうしょう化されている。だからといって美しくないというのではないが、その人工の美しさを裏づける自然の本来の多彩たさいさが失われてしまっていくのでは、やがては人工の美のまずしさを招来することになるであろう。 
 人間がどんな環境かんきょうでも生きられるという、その高度の順応性は、こうした問題をむずかしくしている。密林のなかで何十年もくらすことが不可能ではないし、団地のせまいアパートにひしめきあって生活することもできる。長い年月を牢獄ろうごくにとじこめられても、それだけですぐ死ぬというわけではない。そして、芸術などにはまったく背を向けて一生を送ったところでどうこういうことは起こらないし、実際に多くの人がそうしている。 
 もしも人間が、よりよく生き、よりよい社会をつくるという目標をもたないならば、この世界からの自然の消滅しょうめつ憂えるうれ  理由は何もない。問題の根本は、人間の生きかたについて理想や目標をもつかどうかにある。視野を大きく、また時間のはばを広くとってみるならば、自然の喪失そうしつは人間とその社会にいちじるしい影響えいきょうをおよぼすことになるにちがいない。われわれの周囲に自然をどう保存するか、どのように新たな自然を設計するかは、いうまでもなく、現代社会の重大な課題である。ことに成長期の子どものために豊かな自然を生活の場として与えるあた  ことは、なによりたいせつなことである。
八杉やすぎ龍一りゅういち「自然と言葉」)