「障子」という言葉は、 読解検定長文 中3 冬 1番
「障子」という言葉は、むかし「間をさえぎりふさぐもの」というわけで、戸、 衝立、 襖などの 総称であった。もともとは中国から来た言葉であるが、八世紀ごろの西大寺の記録には、すでに障子の言葉が見えているという。平安時代にも貴族の 邸宅にも、 一般庶民の家にも、 壁などの間仕切りはなく障子をよく使った。
『源氏物語』を読むと、 描写の中にさりげなく障子が出てくる。「……こなたに通ふ障子の 端のかたに、かけがねしたる所に、穴のすこしあきたるを、見おき給へりければ、外に立てる 屏風を、引きやりて、見給ふ。」 薫が夏の暑い日に、亡くなった宇治八宮の 邸へ行き、こちら側に立ててあった 屏風を少しずらし、かねて見つけてあった障子の小さな穴から、中の 姫君たちをのぞくのである。どうもあまり貴公子らしからぬ 振る舞いではあるが、大君を思うあまり、われとわが心を 抑えかねてのことで、まあ大目にみなければいけないだろう。
『 枕草子』の「にくきもの」には、こんなくだりがある。「 遣戸を、あらくたてあくるもいとあやし。すこし持たぐるやうにしてあくるは、鳴りやはする。あしうあくれば、障子などもごほめかしうほとめくこそしるけれ」。板戸を 手荒くあけたてするのも、いったいどういう料簡なのか、気が知れない。少し持ち上げるようにしてあければ、音など出はしないのに。あけかたが悪いから、障子などもごとごと音がして、まわりに聞こえるのだ、と清少納言はぶつぶついっているのである。何ともたてつけの悪そうな戸や障子の話である。これらの障子は、ともに現在の 襖であろう。
いまのような障子は、むかし、「 明障子」といわれていて、平安末期から使われ始めるが、 普及するのは 鎌倉以後である。『徒然草』に、障子の切り張りの話が出てくる。北条 時頼の母、松下 禅尼のところに、ある日息子の 時頼が訪ねてくることになった。そこで「すすけたる明り障子の破ればかりを、 禅尼手づから、小刀して 切り廻しつつ張られければ」兄の義景が、全部張りかえたほうがいいでしょうとすすめるのを、「 尼も、後はさはさはと張りかへんと∵思へども、今日ばかりは、わざとかくてあるべきなり。物は破れたる所ばかりを修理して用ゐる事ぞと、若き人に見習はせて心つけんためなり」。つまり後ですっぱり 張り替えようとは思っているが、きょうのところは若い人に見習わせて注意させるために、わざとこうしているのだといっているのである。
これは『徒然草』だけに出ている話であるが、よほど有名になったらしく、後に 川柳に盛んによまれている。一つ 紹介しよう。
切張りは、大事をしやうじより教へ
「しやうじ」に障子と小事をかけている。天下を治める「大事」を、「しやうじ」で教えているということであろう。教育熱心な母というのは、いつの世にもいたということである。
( 筒井迪夫『万葉の森 物語の森』)
それからまた相当な道のりを 読解検定長文 中3 冬 2番
それからまた相当な道のりを歩いた。銀蔵の言葉どおり、いたち川は左に曲りながら、木々の 繁茂の中を 抜けていた。そこから向こうを 眺めると、道は 極端に細くなっている。自転車を 押して歩ける 幅ではなかった。 竜夫はそこに自転車を置いていくことにした。日が暮れてしまうと風が冷たかった。木々の下はもう全くの 闇であった。草むらにビニールを 敷いて、四人は足を投げだした。銀蔵が木の枝に 懐中電灯をぶらさげた。虫の鳴き声とせせらぎの音が地鳴りのように高まっている。遠い人家の灯が水田の中に点在していて、それらはよく見るとこころもち低地で光っている。知らぬまに道はのぼっていたのである。川のほとりの道はそこから土手のように 伸びているのであった。深い草むらが細道を 包み込んでいた。
「もうどこらへんまで来たがやろうか?」
という英子の問いに、
「大泉を過ぎて、もうだいぶ歩いたから……」
体をまさぐりながら銀蔵は何かをさがしていた。
「しもうた。時計を忘れて来たちゃ」
英子も千代も時計を持ってこなかった。もちろん 竜夫もであった。
「来た道をまた歩いて帰ることになるから、早いこと引き返さんと……」
千代が言った。英子をちゃんと家まで送り届けなければならぬと 彼女は思っていた。いまから引き返したとしても、九時を 廻るに 違いない。
「なァん、 遅うなってもかまわんちゃ。……まだ 螢の生まれるところまで来とらんのに」
英子は不満そうに 前髪をつまんだ。
「生まれよるとこでないがや。あっちこっちから集まってきてェ、 交尾しよるとこがや」
銀蔵は体から 甘い酒の 匂いを 漂わせていた。
「千歩、歩こう」
とそれまで一度も口をきかなかった 竜夫が言った。
「千歩行って 螢が出なんだら、あきらめて帰るちゃ」
「千五百目に出たらどうするがや」∵
と英子がなさけなさそうに答えたのでみんな笑った。
「よし千五百歩まで歩くちゃ。それで出なんだらあきらめるがや。それに決めたぞ」
梟の声が頭上から聞こえた。千代の心にその 瞬間ある考えが 浮かんだ。人里 離れた夜道をここからさきに千五百歩進んで、もし 螢が出なかったら、引き返そう。そして自分もまた富山に残り、 賄い婦をして息子を育てていこう。だがもし 螢の大群に 遭遇したら、その時は 喜三郎の言うように 大阪へ行こう。
立ちあがった千代の 膝がかすかに 震えた。千代とて、 絢爛たる 螢の 乱舞を一度は見てみたかった。出 遭うかどうか判らぬ一生にいっぺんの光景に、千代はこれからの行く末をかけたのであった。
また 梟が鳴いた。四人が歩き出すと、虫の声がぴたっとやみ、その深い 静寂の上に 蒼い月が 輝いた。そして再び虫たちの声が地の底からうねってきた。
道はさらにのぼり、田に 敷かれた水がはるか足元で月光を 弾いている。川の音も遠くなり 懐中電灯に照らされた部分と人家の灯以外、何も見えなかった。
せせらぎの 響きが左側からだんだん近づいてきて、それにそって道も左手に曲がっていた。その道を曲がりきり、月光が 弾け散る川面を眼下に見た 瞬間、四人は声もたてずその場に 金縛りになった。まだ五百歩も歩いていなかった。何万何十万もの 螢火が、川のふちで静かにうねっていた。そしてそれは、四人がそれぞれの心に 描いていた 華麗なおとぎ絵ではなかったのである。
螢の大群は、 滝壺の底に 寂寞と 舞う微生物の 屍のように、はかりしれない 沈黙と死 臭をはらんで光の 澱と化し、天空へと 光彩をぼかしながら冷たい火の粉状になって 舞いあがっていた。
四人はただ立ちつくしていた。長い間そうしていた。
やがて銀蔵が静かに 呟いた。
「どんなもんじゃ、見事に当たったぞォ……」
「ほんとに、…… 凄いねェ」∵
千代も無意識にそう言った。そして、 嘘でなかったねェと言いながら、草の上に 腰をおろした。 夜露に 濡れることなど眼中になかった。 嘘ではなかった。千代は心からそう思った。この切ない、 哀しいばかりに 蒼く瞬いている光の 塊に 魂を注いでいると、これまでのことがすべて 嘘ではなかった、その時その時、何もかも 嘘ではなかったと思いなされてくるのである。 彼女は 膝頭に自分の顔をのせて身を 屈めた。全身が冷えきっていた。
「おったねェ……」
耳元に 囁きかけてくる英子の息が、 竜夫の中に染み通ってきた。
「…… 交尾しとるがや。また次の 螢を生みよるがや」
銀蔵の口調は熱にうかされているように、心なしか 喘いでいた。
「 傍まで降りて行こうか?」
と 竜夫が言った。
「なん、いやや」
英子は 竜夫のベルトをつかんで引き留めた。
「ここから見るだけでええがや」
「なして?」
英子はそれには答えず、ベルトをつかんでいる手の力を強めてきた。 竜夫は川のほとりに降りていった。
「 竜っちゃん、やめよお、ねえ、行かんでおこう」
何度も 呟きながら、英子はそれでも 竜夫についてきた。間近で見ると、 螢火は数条の波のようにゆるやかに動いていた。 震えるように発光したかと思うと、 力尽きるように 萎えていく。そのいつ果てるともない 点滅の 繰り返しが何万何十万と身を寄せ合って、いま切なくわびしい一 塊の生命を形づくっていた。
(宮本 輝「 螢川」)
「話」なしには夜も日も明けぬ 読解検定長文 中3 冬 3番
「話」なしには夜も日も明けぬわれわれの生活であるが、聞くはしから忘れて行く話の分量も大変なものであろう。短編小説は、その意味では、まるで 市井の 淀みに 浮かんで、かつ消えかつ結ぶ 泡沫のごとくである。かえって子どもの時分に聞いたり読んだりした話の中に、 奇妙にいつまでも忘れられぬものがある。
私の場合、例えば人さらいの話などはそうであった。まだ「原っぱ」というようなものがあちこちにあった時代で、「人さらい」という言葉にもかなり実感があった。遊びに熱中して日が暮れても家に帰ろうとしない子供を 脅すのに、大人はよく人さらいの話を持ち出した。
さらわれた子供はサーカスに売られ、曲芸をするのに身体を 柔らかくするため 酢を飲まされる。そして、くる日もくる日も 鞭で 叩かれ、泣く泣く球乗りや 綱渡りの芸を 仕込まれる。それでも子供の身空では 逃げ帰ることもかなわないなどと、今のサーカスの人が聞いたら 怒るだろうようなことを、まことしやかに 吹き込んだものである。
人の子をさらって行くのは、人間とはかぎらない。大きな 鷲が幼児を連れ去ったという、伝説めいた話も年寄りから聞かされた。 鷲は、その子をどこかの寺の高い松の 梢に 引っ掛けて行った。それを運よく 坊さんに拾われて育てられ、その子も長じて 偉い坊さんになったとかいう話であった。
子供心には、そういう話はお化けや 幽霊のそれとはまた 違った 恐怖を 与えた。子供はサーカスの苦行が 恐ろしいのでもなければ、 大鷲の 爪に 襟首を 掴まれて宙高く 舞い上がり、むりやり遠方まで飛行させられるのがこわいのでもない。そうした出来事の向こうに、故郷の家を思い父母を 恋うて泣き暮らさねばならない永い年月を想像して、白日の悪夢のような絶望感におそわれるのである。
森 鴎外の短編『 山椒大夫』でも知られる「 安寿と 厨子王」の話も、子供には救いようのない話の見本のようであった。小学生の私は、あれを最初に講談社の絵本で読んで、やりきれない気持ちにさせられた。男の子なら 誰しも自分が 厨子王の身になって読むにちが∵いないが、おなじ人さらいに出会うのも母親と姉と 姥と四人づれなのがいくらか 心丈夫かと思うと、そうは行かない。 姥は海に身を投げ、母は別の 舟に乗せられて、あっという間に反対の方角に遠ざけられる。姉さんはやがて自分を助けるために、 沼に入って死んでしまう。それでも自分は立派に成人して地方の役人になり、ついには母親にめぐり会うのは 嬉しいが、しかし、その母は老いさらばえた 乞食のような姿で、しかも 盲目で、とある農家の庭先で 粟にたかる 雀を追っている。「 安寿恋しや、ほうやれほ。 厨子王 恋しや、ほうやれほ。鳥も 生あるものなれば、 疾う 疾う 逃げよ、 逐わずとも」と、その口ずさむ歌も 哀れのきわみである。
子供は、自分が受けた感動の内容を大人のように言葉で説明することはできない。ひどい話を読んだあとでは、何か毒でも飲まされたような苦しみが残るにすぎない。それを仮に言葉にすれば、悪人の働きが 恐ろしいとか、姉さんの身の上がかわいそうとか、お母さんの姿が痛ましいとかいうだけではない。それよりも、そんなふうにして失われた月日は二度と返らない。たとえ母親が命だけは無事で、息子もちゃんと大人になったとしても、過ぎた時の 埋め合わせは 誰がしてくれるものでもない、それはあまりに 残酷である、というようなことだったろう。
( 阿部昭『短編小説礼 讃』)
なにぶん絵本のことで、 読解検定長文 中3 冬 4番
なにぶん絵本のことで、生々しい絵の印象も手伝ったにちがいないが、「 安寿と 厨子王」の話は私には暴力にも似た 一撃であった。グレアム・グリーンが『失われた幼年時代』で言っているように、「本というものがわれわれの人生に深い感化を 及ぼすのは、おそらく幼年時代だけである。それ以後は、感心したり、面白がったり、これまでの見方を修正したりすることはあっても、多くはすでに考えていたことを本で確認するにとどまる。 恋をしていると、自分の顔かたちが実物以上によく見えるような気がするのと同じである。」
私が 鴎外の『 山椒大夫』を読んだのは、大人になってからであった。そして今度また久しぶりに再読したが、結末のところを見て、そうかと思った。あの母親は、可愛いさかりの 娘と息子をさらわれた 哀しみに夜も昼も泣いて暮らすうちに、とうとう目がつぶれてしまった、というくだりがあるような気がしていたからである。むろん、作者はそんなことは書いていなかった。書く必要もなかったにちがいない。私はたぶん昔の絵本でそう読んだのか、でなければ自分でそう考えたのであろう。いずれにしても、私の心には絵本のイメージのほうが生きていたのである。
私が 鴎外の結末でいい加減に読み過ごしていた 箇所は、もう一つあった。作者はこう書いている。
「女は 雀でない、大きいものが 粟をあらしに来たのを知った。そしていつもの詞を唱えやめて、見えぬ目でじっと前を見た。そのとき干した貝が水にほとびるように、両方の目に 潤いが出た。女は目が 開いた。
『 厨子王』という 叫びが女の口から出た。二人はぴったり 抱き合った。」
それは 厨子王が姉の形見に 肌身離さず持っていた守り本尊の力であるという。そこが、ほとんど私の印象にはなかった。絵本のほうはどうであったかは、もう覚えていない。子供心にも、この最後の 奇蹟はいくぶん付けたりのように思われたかもしれない。今の私には、親の一念、子の一念とはそれほどのものかもしれないと思う気持ちもある一方で、不幸な女の 盲目という書き方に、何か古い物語∵の 慈悲のようなものを感じる。ハッピーエンドがつまらぬというのではなく、目が明くことのほうが 残酷な場合も人生にはあるだろうからである。
作者 鴎外は、この作品の発表(大正四年)と同時に『歴史 其儘と歴史 離れ』という文章を書き、自ら 詳しい解題を行っている。そして、「 山椒大夫のような伝説は、書いて行く 途中で、想像が道草を食って迷子にならぬ位の程度に筋が立っているというだけで、わたくしの 辿って行く糸には人を 縛る強さはない。わたくしは伝説そのものをもあまり精しく探らずに、夢のような物語を夢のように 思い浮かべて見た」と言っている。
「夢のような物語を夢のように」というその夢は、ある特定の個人が見る夢というより、われわれ日本人の 誰しもが民族の血の中に 受け継いできた古い歴史の余映のようなものであろう。夏目 漱石も短編集『夢十夜』(明治四十一年)で、われわれの現在を支配する過去の 恐ろしい姿を、不条理なイメージの断片を 突きつけるようにして、あばいて見せた。伝説のみならず、 お伽噺や民話や 怪談のたぐいがいつの世にも子供の心をとらえるのは、子供自身の血の中に、自分が生まれる何代も前の 記憶を呼び起こそうとする本能が 潜んでいるからだとでも考える他はない。
( 阿部昭『短編小説礼 讃』)
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