食事を済まし 読解検定長文 中3 秋 1番
食事を済まし、支度ができたのは一時過ぎだった。K君には私の古洋服、古あみあげを貸し、私とH君とはゴムの 長靴をはいた。H君はパンの他にコーヒーを入れた大きな 魔法壜を 肩にかけた。雪の遠足、子供のころほどには勇みたてなかった。しかしまだまだ年にしてはこんなことを興ずる方だった。
沼べりの 田圃路を行くと雪はもう解けかけ、 靴の下でびちゃびちゃ音をたてた。 苅り田の切り株に丸く残っていた。
警察分署の横から町を横切り、 踏切の方へ行く。S大工の家の前には夏のころ所望したが 譲らなかった「 合歓木」がさびしい姿で立っていた。駅員相手に 掛け茶屋のような事をしていたから、夏、その下に 縁台を出す 繁った木を取られては困るのだ。S大工が 鬚だらけの 達磨顔を 当惑さしていたのを思い出した。
「夏になると、これがなかなかいいんだ。花もきれいだし」未練がましく、私は木を 仰いで過ぎた。
線路を 越すと広々とした畑になる。この辺、まだ一面に雪が残っていた。 畝なりに波打つ雪の表面から麦がところどころにその葉先を見せていた。
やはりいい気持ちだった。私たちは立ち止まった。その時ふと十間ほどうしろにうちの子犬が来ている事に私は気がついた。子犬もそこで立ち止まっている。
「帰れ!」私は大声にいって追いかえそうとした。子犬は 尾を垂れ、わきへ身を 隠した。
「歩けないかな」
「歩けない。富勢の植木屋へ回ると三里あるからね」
とにかく、追いかえす事にする。雪をぶつけると 尻を丸くして 逃げるが、少し行っては立ち止まり、またこっちを見ている。追えば追っただけ 逃げて同じ事だった。(中略)
「しかしそんなに 馴れないくせについて来るのが変ですね」
「それが変だよ。そうなると、雪の中に置いてきぼりを食わすのも気持ちが悪いしね」∵
「止まってると少し寒くなる」
で、私たちは路へ出て、また歩き出した。そして間もなくそれが近道で、大きな松林の中へ入って行った。水気を 含んだ雪が時々高い枝から音をたてて、落ちて来た。
松林を出て細い路からいったん 田圃路へ降り、さらにダラダラ坂を登って私たちはある村落へ入った。村には飼い犬がいて、子犬は 脅かされ、よく見えなくなった。その度、私たちは後もどりをしてさがさねばならなかった。
見つけて、「早く来い」こういうと、子犬は 尾を下げたまま 臆病にその先を 振るが、近づけば 逃げた。何者をも決して信じない子犬の態度はいくら子犬でも腹が立って来た。
「これじゃあ、夜になっても帰れないぜ。どこかで 縄をもらってつないで行こう」
私は農家で一間ほどの 藁縄をもらって来た。しかし、村なかでなく、村を出はずれてから 捕まえる事にした。
「何くわぬ顔で先へ行ってくれないか」
私は道ばたの 灌木の中に身を 隠した。子犬が通り過ぎた所を 挟撃するつもりだった。だんだん遠ざかる二人の足音を聞きながら、私は今にも現われる子犬を待ったが、二人が一丁ほど行ってもまだ子犬は現われなかった。私はそっとのぞいて見た。子犬はそこに立っている。そして私の姿を見ると、すぐ 逃げた。
私は子犬が農家の納屋へ 逃げ込んだ所をとうとうつかまえた。子犬は夢中になって、私の手にかみつこうとした。私は 上顎と下 顎を 一緒に 握って、あいた手で 縄を首輪へ通した。それから犬の 尻を五つ六つ平手で打ってやった。子犬は鳴き声もたてずに、食いつこうともがいた。 癇癪からこっちも殺気立った。二本に短くなった 縄でつる下げてやると、子犬は歯をむいたまま 鮒のように空で 跳ねた。
(志賀 直哉「雪の遠足」)
米国で耳学問が 読解検定長文 中3 秋 2番
米国で耳学問が発達していることを示す例として、よくいわれることだが、米国人は日本人と 違って質問する 術がうまい、ということがあげられる。うまいのではなく、要するに、わからないことは何でも質問する習慣があるということにほかならない。
わからないことは何でも質問するということで思い出すのは、コロンビア大学にいた 頃の私の教え子だ。
その学生の姿を遠くから見かけたら、どんな教授でも 避けて通るほど、会うたびに質問をする学生だった。大学内だけではなく、夜 遅くても教授の自宅に電話をかけてきて、一時間余り質問 攻めにするという風に、それは 徹底していた。(中略)
この学生に典型的な例を見るように、米国では、質問して学ぶ、つまり耳から学ぶ「耳学問」が学問の一法としてまかり通っている。日本人はとかく「いい質問」と「くだらない質問」を分けたり、あるいは、本当は答えはわかっているのに自分の才能とか、発想とかをひけらかすために質問したりする 傾向があるようだが、米国人にはそれがない。いい質問とか、くだらない質問とかに 頓着しないで、とにかくわからないことは何でも質問し、できれば質問することだけで学びつくしてやろうという姿勢が、米国人 全般にあるのだ。
確かに一流大学の学生なら、この耳学問だけで、短期間にかなりのレベルまで学ぶことができる。例えば三、四百ページの本に書かれていることを学ぼうとしている時、学生は教授のところへ行って、「この本には何が書かれているのですか?」と、日本の大学では考えられないような質問をする。実に 幼稚で、おおざっぱな質問であるが、質問された教授はそれに対して 懸命になって説明する。するとその説明に対してまた質問を浴びせ、それを何時間かにわたってくり返しているうちに、その本のエキスの 大概を学生はつかんでしまうのだ。大部の書を十ページ読んで、わからなくて 放棄するより、まるで目を通さずに質問したほうが、結果としては、格段にいいわけである。もちろん、こまかい点は読まなければならないが、大体のエキスあるいは骨格がつかめていれば、本に対する理解は早い。
私はよく学生との間で経験していることなのだが、日本の学生の場合は質問する時に、「WHY」とか「HOW」という聞き方が非∵常に多い。いうまでもなく「WHY」というのは「なぜか」ということなのであるが、これは「真理」(truth)を 尋ねているわけである。これに対して米国の学生は「WHAT」という形の質問が非常に多い。「それはいったい何なのか」という聞き方をする。これは「事実」(fact)を聞いているわけである。
要するに日本の学生のほうは、事実の背後にある真理を求めていると 解釈できる。「WHY」と問うのは事実だけでは満足できないからだというのであれば、これはこれで立派なことだと思う。しかし真理などというのは、場合によっては情報がいつの間にか真理と 錯覚することもあり、事実も知らないくせに「真理」という言葉をふり回して自己満足に 酔っている場合もあり得る。一方、事実をはっきり知ることから出発しなければ危険だ、事実から真理を 見抜くのは自分の仕事で他人に聞くものではないという態度もある。どちらがよいかという判断はつきかねるが、ともかく日本でそういう 違いがあることを知っておくのもよいだろう。
ところで、こうした耳学問は、単に学問の上ばかりではなく、さまざまな局面で利用される。例えば日本のことを知りたがっている米国人は、日本について書かれた本を読むより、まず身近な日本人にどんどん質問するわけである。私も、周囲の米国人から 逐一日本のことを質問されたことがあった。質問されれば、答えなければならない。答えなければ、こちらも相手に向かって、それに似たことを質問できないからだ。答えるには、どうしたらいいか。日本とはどういう国か、日本人とはどのような性格をもった国民か、自分で考えたり本を読んだりして、学ばなければならないのである。教えるためには学ばなければならない。いいかえると、学ぶための方法の一つは、人に教えることにある、ともいえるのだ。
それはともかく、こうした経験をくり返す中で、日本という国の見えない特性、日本人特有の生活感情や思考法などについて私が発見したことは、ずいぶんあった。国際化したこれからの社会では、この耳学問が大いに重要な意味をもっているに 違いない。
(広中 平祐「生きること学ぶこと」)
目が心の窓だという諺は 読解検定長文 中3 秋 3番
目が心の窓だという 諺は、旅をする者には一番よくわかる。二十の 紹介状、五十の 名刺をくばってあるくよりも、さらにはるかに好都合なのは、自分の心の窓のすりガラスでないことと、田舎の心の窓の風通しのよいことである。よく旅から帰って、その地は人気がよいの悪いのという人も、その確信を 証拠だてるまでに、多数の地方人と 交渉または取引をしたのではない。やはり口では言い現しえぬ目の交通が、しだいに空な感じと思われぬまでに、強くその印象を 与えるからである。電車や汽車の中でもいろいろな眼の光に接するが、それは主として草野を行くような変化の興味である。これに対して村里に入れば、その種類がほぼ 揃っているために、いよいよ言語にかわる程度に、 濃厚に人を動かすのである。
窓のたとえをなおくり返すならば、旅人は別に所在もないために、終始この窓にもたれているのである。その窓前を多数の内部を知らぬ建物が動いていく。建物にはおのおのまた窓がある。のぞかずにおられぬではないか。またあちらでも窓の側に立っているらしい。もちろん中で 喧嘩をしたり 昼寝をしたりしているのもずいぶんあるが、もともとこういう旅人を見るために開けておく窓だから、ちょっとでも利用しようとするのが 普通である。全体に口の少ない社会だから、われわれが言語を 傭いまたは耳を利用するような場合にも、人々は目の窓だけですまそうとする。したがって見るためよりも見られるために、語るあたわざることを語らんがために、田舎の目ははるかに有効に用立っているようである。都会の目は多くは 疲れている。こちらでは 澄んでおるから中の物もよく映るのであろう。民族性というほどのものではないであろう。
小児には何十回となく、目をもって商売を問われ行く先を 尋ねられ、または手に持つ本やタバコの名をきかれたが、別にそれ以外にそれよりも 交渉は 淡く、人間としてははるかに有力なる宣言を、今度の旅行にもこの目をもって二度聞いた。石巻から乗った自動車が、 岡の 麓の路を曲がって 渡波の松林に走り着こうとする時、遠くに人と馬と荷車との一団が、 斜めに横たわって休んでいると見た 瞬間に、その馬が首を回して車を引いたまま横路に 飛び込んだ。小学校を出たばかりかと思う小さな馬方が、 綱を手にしたままころ∵んだとみた時には、もうその車の後の輪が一つ、ちょうど腹の上を 軋って過ぎた。それでも子供はまっすぐに立って、三足ほど馬を追って 振り返ってちょっとこちらを見て、腹を両手で 押さえてまた 倒れた。反対の側の輪に力が 掛かっていたともいい、路面に深いくぼみがあって、あたかもその中に転んでいたからともいって精確でない。とにかく病院に連れて行かれてその時は助かったが、ただの 一瞬間の子供の目の色には、人の一大事に関する無数の疑問と断定とがあった。その中で自分に問われたように感じたのは、おりもおりこの時刻に、どうしてここを通り合わせることになったのかという疑問で、それがまた朝からいろいろの手配の 狂い、計画の数回の 変更が、ちょうどこの場へ今われわれの自動車を通らせることになったのを、一種の宿命のようにも取ることができたからである。
中一日おいて次の日には、自分は 十五浜からの帰りに、 追波川を上ってくる発動機船の上にいた。大雨の小止みの間に、 釜谷の部落を見ようとして 甲板に立つと 曳船を 頼むといって 濡れた 舟が一つ、岸に 繋いである所へ一群の人が下りてくる。石巻の医者へつれて行くチフスの病人と聞いて、事務員が 面倒な条件ばかりを出すのを、一々首をもって承認して 釣台を担いで乗ろうとする。年をとった女が二人付いてくる。荷の軽さが子供らしいので、なるべくこの窓だけはのぞくまいとしていたのに、やはりはずみがあってその子供と目を合わせた。「今昔物語」に 鹿の命に代わろうとした聖が、 猟人と 松明の光で見合わせたという類の 遭遇で、ほとんど 凡人の発心を 催すような目であった。たぶんは出水の川船の数里の旅行の後、石巻で亡くなったことと思うが、それは十一、二ばかりの女の子であった。草の 堤をやや下りに、船を見ようとして私を見つけたのである。目の文章は詩人にも訳しえまいが、あるいは自分を医者かと思って、お医者さんなら遠くへ行かずともすむのにと、考えたらしかったのが 哀れであった。
( 柳田国男「子供の眼」)
そのとき、はじめて 読解検定長文 中3 秋 4番
そのとき、はじめて お悔やみを言いました。
「お 蝶小母さんが亡くなられて、私もさびしくなりました。」
すると、私のまんまえでこちらを向いていた栄作小父さんは、ほんとうに静かな動作で、つうっと横を向いてしまい、そのまま直立の姿勢をくずさないでいるのでした。まわりに同じ村の人たちが四、五人はいたのですが、 敏感にその場の気配を察して、私と栄作さんの間の 雰囲気をそっとしておくために、心をくばったようです。 瞬時のことです。
妻をなくして、もうだいぶ月日がたっているのに、夫である栄作さんのつらさが、私に 挨拶されて、そんなにも新しくよみがえったことに、まわりの人たちがいたわりを見せたのでした。細身で、どちらかといえば背の高い、農仕事でひきしまったからだ。面長で鼻筋のとおった顔は、陽が照り残っているようなつやを見せています。七十は 越しているのに 髪も黒く、目も切れ長に黒い。その人が少年のように、口もきけず横を見たまま、まっすぐ遠くをみつめている。たぶんあふれてくるものを見せまいと、背筋を張っていたのに 違いありません。その姿は木のように 素朴で、悲しみがつっ立った感じでした。いきなり横を向かれた私にも、すぐそのことが会得されました。私はちっとも困りませんでした。そして 黙って立ちました。 隣り合わせた一本の木のように。(中略)
横浜での、心のシャッターチャンスがとらえた一枚のスナップについての、これが簡単な説明です。私はこの無形の写真をときどき 思い浮かべると、どうしてか気持ちがほうっとふくらんで、くちびるの辺りがほころびてくる。これをユーモアと名付けてよいものか、どうか。ふだんは 礼儀正しい明治の老人が、礼を忘れた姿に、日がたってからとはいえ、私がかすかなおかしみを味わうとしたら、これは第三者の残 酷以外のなにものでもないのですが、私にはやはりユーモアと名付けるのがいちばんふさわしく思われます。なめれば 甘い、というような単純さで、笑ったからユーモアだ、というのとは別種のもの――。
伊豆の、 山家の、炭焼きさんの、という、うたうような語り口。なぜかあの村へ行くと、人々のやりとり、会話にリズムがあるのを∵感じます。 一軒の家の 囲炉裏に 隣近所のひとが寄ってきてかわす会話の機知に富んだ 軽妙さ。ひとつひとつ覚えておかなかったことが残念ですが、覚えるほどのことではない、また覚えきれることではない日常性が、小川の流れのように、上手に時間を、人と人との 間柄をとりもって運び続けているのかも知れません。それはまちがいなく「ことば」の果たす役割でした。 遠慮のなさ、気取りのなさ、かなりな 冗談。それでいてふっと 黙る部分がある。それが動作に出る。
先ごろ田舎に帰ったとき、栄作さんはからだが弱くなって 寝ている、というので、その庭先からたずねると、いまはあるじの息子が出てきて私に言いました。「ハイ(もう)年ですからノ。年に不足はないガです。」いちおう声をひそめているものの、障子 越しにつつぬけなのはわかっていて、それを、ハラハラなどしないで聞いている自分に、私は確かにここは岩科だ、と思うのでした。通常、 跡とり息子が親に対して、そんな 陰口をきいたら、 お互いどんなメクジラをたてるだろう? 「年に不足はないガです。」そんなことをサッパリと、他人向けに言ってみせる。息子は 充分親孝行で、親は親で、案内された 囲炉裏ばたで茶をすすっている私のところへひょっくりあらわれ、きちんと 膝をそろえるのでした。「この 蜂蜜は、自分のに採ったガです。東京へ持ってって下さい。」 挨拶や説明はすでに家族がすっかり済ませているのを承知で、栄作小父さんはいきなり四合びんを私のかたわらに置くのでした。 透明な器の中で、とろりと 濃い蜜が、びんの首まで届いています。
私はまだまだ顔色のいい栄作さんに目をあて、小父さんはいい耳をしていると、つくづく思いました。
( 石垣りん「 焔に手をかざして」)
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