私がまだ小学校に行っていた時分に 読解検定長文 中3 秋 1番
私がまだ小学校に行っていた時分に、 喜いちゃんという仲のいい友達があった。喜いちゃんは当時中町の 叔父さんの 宅にいたので、そう道のりの近くない私のところからは、毎日会いに行くことができにくかった。私はおもに自分の方から出かけないで、喜いちゃんの来るのを宅で待っていた。喜いちゃんはいくら私が行かないでも、きっと向こうから来るにきまっていた。そうしてその来るところは、私の家の長屋を借りて、紙や筆を売る松さんのもとであった。
喜いちゃんには父母がいないようだったが、子供の私には、それがいっこう不思議とも思われなかった。おそらく 訊いてみたこともなかったろう。したがって喜いちゃんがなぜ松さんのところへ来るのか、その訳さえも知らずにいた。これはずっとあとで聞いた話であるが、この喜いちゃんのお 父っさんというのは、昔銀座の役人か何かをしていた時、 贋金を造ったとかいう 嫌疑を受けて、 入牢したまま死んでしまったのだという。それであとに取り残された細君が、喜いちゃんを先夫の家へ置いたなり、松さんのところへ 再縁したのだから、喜いちゃんがときどき生みの母に会いに来るのは当たり前の話であった。
なんにも知らない私は、この事情を聞いた時ですら、べつだん変な感じも起こさなかったくらいだから、喜いちゃんとふざけ 廻って遊ぶ 頃に、 彼の 境遇など考えたことはただの一度もなかった。
喜いちゃんも私も漢字が好きだったので、わかりもしないくせに、よく文章の議論などをして面白がった。 彼はどこから 聴いてくるのか、調べてくるのか、よく難しい 漢籍の名前などを挙げて、私を 驚かすことが多かった。
彼はある日私の部屋同様になっている 玄関に 上がり込んで、 懐から二冊つづきの書物を出して見せた。それは確かに写本であった。しかも漢文で 綴ってあったように思う。私は喜いちゃんから、その書物を受け取って、無意味にそこここを引っくり返して見ていた。実は何が何だか私にはさっぱりわからなかったのである。しかし喜いちゃんは、それを知ってるかなどと 露骨なことを言うたちではなかった。
「これは大田 南畝の自筆なんだがね。 僕の友だちがそれを売りたい∵というので君に見せに来たんだが、買ってやらないか」
私は大田 南畝という人を知らなかった。
「大田 南畝っていったいなんだい」
「 蜀山人のことさ。有名な 蜀山人さ」
無学な私は 蜀山人という名前さえまだ知らなかった。しかし喜いちゃんにそういわれてみると、何だか貴重の書物らしい気がした。
「いくらなら売るのかい」と 訊いてみた。
「五十銭に売りたいというんだがね。どうだろう」
私は考えた。そうして何しろ値切ってみるのが上策だと思いついた。
「二十五銭なら買ってもいい」
「それじゃ二十五銭でも構わないから、買ってやりたまえ」
喜いちゃんはこういいつつ私から二十五銭受け取っておいて、またしきりにその本の効能を並べ立てた。私には無論その書物がわからないのだから、それほど 嬉しくもなかったけれども、何しろ損はしないのだろうというだけの満足はあった。私はその夜「 南畝莠言」――たしかそんな名前だと 記憶しているが、それを机の上に 載せて 寝た。
(夏目 漱石「 硝子戸の中」)
あくる日になると 読解検定長文 中3 秋 2番
あくる日になると、喜いちゃんがまたぶらりとやって来た。
「君昨日買ってもらった本のことだがね」
喜いちゃんはそれだけいって、私の顔を見ながらぐずぐずしている。私は机の上に 載せてあった書物に眼を注いだ。
「あの本かい。あの本がどうかしたのかい」
「実はあすこのおやじに知れたものだから、おやじがたいへん 怒ってね。どうか返してもらって来てくれって 僕に 頼むんだよ。 僕も一ぺん君に 渡したもんだからいやだったけれども仕方がないからまた来たのさ」
「本を取りにかい」
「取りにってわけでもないけれども、もし君の方でさしつかえがないなら、返してやってくれないか。なにしろ二十五銭じゃ安すぎるっていうんだから」
この最後の一言で、私は今まで安く買い得たという満足の裏に、ぼんやり 潜んでいた不快、――不善の 行為から起こる不快――をはっきり自覚しはじめた。そうして一方ではずるい私を 怒るとともに、一方では二十五銭で売った先方を 怒った。どうしてこの二つの 怒りを同時に和らげたものだろう。私は苦い顔をしてしばらく 黙っていた。
私のこの心理状態は、今の私が子供の時の自分を 回顧して 解剖するのだから、 比較的明瞭に 描き出されるようなものの、その場合の私はほとんどわからなかった。私さえただ苦い顔をしたという結果だけしか自覚し得なかったのだから、相手の喜いちゃんには無論それ以上わかるはずがなかった。 括弧の中でいうべきことかもしれないが、 年齢を取った今日でも、私にはよくこんな現象が起こってくる。それでよく 他から誤解される。
喜いちゃんは私の顔を見て、「二十五銭では本当に安すぎるんだとさ」と言った。
私はいきなり机の上に 載せておいた書物を取って、喜いちゃんの前に 突き出した。
「じゃ返そう」
「どうも失敬した。なにしろ 安公の持ってるものでないんだから仕∵方がない。おやじの宅に昔からあったやつを、そっと売って 小遣いにしようっていうんだからね」
私はぷりぷりしてなんとも答えなかった。喜いちゃんは 袂から二十五銭出して私の前へ置きかけたが、私はそれに手を 触れようともしなかった。
「その金なら取らないよ」
「なぜ」
「なぜでも取らない」
「そうか。しかしつまらないじゃないか、ただ本だけ返すのは。本を返すくらいなら二十五銭も取りたまいな」
私はたまらなくなった。
「本は 僕のものだよ。いったん買った以上は 僕のものにきまってるじゃないか」
「そりゃそうに 違いない。 違いないが向こうの宅でも困ってるんだから」
「だから返すと言ってるじゃないか。だけど 僕は金を取る訳がないんだ」
「そんなわからないことを言わずに、まあ取っておきたまいな」
「 僕はやるんだよ。 僕の本だけども、欲しければやろうというんだよ。やるんだから本だけ持ってったらいいじゃないか」
「そうかそんなら、そうしよう」
喜いちゃんは、とうとう本だけ持って帰った。そうして私は何の意味なしに二十五銭の 小遣いを取られてしまったのである。
(夏目 漱石「 硝子戸の中」)
もうその頃、僕は 読解検定長文 中3 秋 3番
もうその 頃、 僕は尺八の美しさをよく知っていた。祖母の家に訪ねてくる尺八の名人がいて、その朗々とした 響きは今もって忘れない。正座して尺八を構え、目を半眼に開く――これは子供心に 抵抗を感じたが――そうして首を 振りながら、生まれるビブラートは、まず腹の底に 響くといった豊かさがあった。
だが一体、目を半眼に開くということはどういうことだろう。フルートは目を開いて 吹く。その目は 楽譜を見たり指揮者を見たりという具合で、目をつむって 吹いたにしても例外的なことだろう。いわば前を見ながら後を見、信号や標識に目を配る運転手の目のように働いている。
しかし尺八の奏者はまさに無念無想の構えである。そしてこの構えは、 琴や 三絃と合奏するときにも破られようとは思えない。いずれも音に集中する態度に 相違ないが、フルートが全体の流れを追って集中していくのに対して、尺八は鳴っているその一つ一つの音への投入を前提とするようにみえる。たしかにフルートと同様、尺八も 微妙な音の運動を行うが、フルートがつねに 到達しようとする音度を指向して運動する性質をもっているのに対し、尺八の運動は、音に 没入するその感極まったあげくの表情か、あるいは寺男が 余韻の消え去る 頃合いを見計らって次の 鐘を打つ、その感情に似て、新しい音に 没入するまえの 戦慄を表すもののように 響くのである。
いうまでもなく、楽器はすべて 響きの工夫を 伴っている。音はそれによって 光彩を放ち、楽音として完成する。このことに尺八もフルートも異なるところはないが、しかしフルートは絶えず改良を 施されてきた。はじめは尺八と同様縦笛だったそうだが、 響きの合理性から横笛に変わった。そして、指のおさえもただ くり抜かれただけの穴から 鍵にかわり、それがまた改良に改良を加えられて今日の楽器に至ったのである。
けれども尺八には一体どういう改良が行われたのだろう。もちろん工夫はあったに 相違あるまいが、しかしつくられた昔から今日ま∵でそのままの形で生きつづけてきたといった方が似つかわしい格好である。
それにしても尺八は音の 禅ということはどういうことだろう。あまりこだわってもなるまいが、何となく気にかかって過ごしているうちに、 鈴木大拙の本の中で次のような説話に出会った。
真理がどんなものであれ、 禅とは身をもって体験することであり、知的作用や体系的な学説に 訴えぬことである、と、 大拙はつけ加えている。
なるほど、日本の音楽は知的作用を 隔絶した世界である。ヨーロッパの音楽は、記 譜法を確立するとともに、理論的体系を積み重ねながら調的な力を追求してきた。もっとも、そのあげく現代に至って 遂に調 破壊の 激越な意識を生むに至るのだが、それはともかく、日本の音楽はそのようなドラマとは 無縁のことであった。すなわち、ヨーロッパの音楽は調的な力の 把握に知的作用の 援けを借りたが、日本の音楽は、調性をひたすら体験的なものとして感じ、伝承してきたのである。上述の説法を借りれば、ヨーロッパの音楽は、起こり得るあらゆる危険を 分析して対策を講じてから行動する 夜盗に似、日本の音楽は説話そのままの 夜盗に似ているということになろう。
いいかえれば、ヨーロッパの音楽は客観的、日本の音楽は主観的性格を持つということになる。もしベートーベンが音ではなく光を失っていたとしたら音楽は書けなかった。けれども古来日本の音楽家には 盲人が少なくない。そういう日本ではもっぱら、耳づて、口づてで音楽が伝承されてきた。当然、耳や 勘が働けば目をつむっていてもかまわぬわけで、いやむしろ、目をつむった方が耳や 勘の集中にかえって具合がいいということになるだろう。尺八奏者の目もこの関係を物語っているが、これはまた、体験的な音の世界のありようを 暗黙のうちに物語っている。
(小倉朗「日本の耳」)
われわれ普通の凡俗にとっては 読解検定長文 中3 秋 4番
われわれ 普通の 凡俗にとっては、情報の節食、ないしコントロールということはむずかしい。実際「遠くへ行きたい」と言うので、山に登ったりする若者たちも、テントの中で、必ずラジオを聞いている。もちろん、山の天気は変わりやすく、したがって、天気予報を聞くためにラジオは 必需品だ、と若者たちは 抗弁する。しかし、かれらのテントに近づいて耳を 傾ければ、かれらは例外なくディスク・ジョッキーなどを聞いているのである。いや、天気予報だって、昔の登山家は、自分の過去の経験によって見通しを立てた。今日の大衆登山は、その意味では情報登山とでも呼ばれるのがふさわしい。
どうしても情報の 洪水の中で生きるより仕方がないのであるとするならば、そこでわれわれには、いったい何ができるのであろうか。
一つの可能性は「体験」の世界を大切に見直してみることである。人間は、みずからの経験の中に、他人の経験を取り入れることができる。われわれの「想像力」は、他人のどんな経験にも乗り移り、どこにでも自由に動いてゆくことができるのだ。われわれのシンボル的経験の世界は、いくらでも、広がってゆく。しかし、シンボル的経験が広がる、ということは、しばしば人間の現実と直接的なかかわりをおろそかにさせる。もちろん、「現実」というもの自体も、シンボル的であり、人間の精神機能を 抜きにして考えることはできない。しかし、たとえば、「花」という言葉を使って、花について考えたり語ったりすることよりも、われわれが「花」という言葉によって指し示している実在の植物を自分の手に取って、そのにおいをかいでみる、という 行為のほうが、情報行動として、よりシンボル性が少なく、より実在の世界に近づいている、と言えるだろう。そうした、実在の世界との 距離をせばめることを、われわれはときどき試みる必要がありはしないか。(中略)
われわれの情報活動のなかでは、しばしばイメージ、あるいは観念を尺度にして現実を評価する、という逆転した思考方法が定着してしまっている。「体験」という名の情報に、より大きな価値を 与える習慣をつけなければ、この逆転を正常な姿に 引き戻すことはできない。たとえば、旅行案内に書かれていることと、自分がその現地で体験したこととの間に 食い違いがあるとすれば、その場合、まちがってるのは、明らかに情報のほうなのである。自分の体験が∵尺度になって、その尺度によって情報が評価されて、はじめて、人間と 環境とのかかわりは、正しい姿になるのだ。それを逆転させているかぎり、われわれの情報活動は根なし草のごときものであり続けるだろう。
実際、こんなふうに情報圧力が激しくなってくると、われわれは情報のとりこになり、 押し流されることになりかねない。自分の持っている意見が、新聞などに 載っている社会の大多数の意見と 食い違っているときには、なんとなく不安になって、自分の意見を捨てたくなったりもする。周りがみんな、そうだ、そうだ、と 叫んでいるときに、ひとりだけ、ちがう、と発言することは、たいへんな勇気のいる作業なのである。
それを 押し返すためには、それぞれの人間がなにがしかの「体験」を 蓄積することこそが大事なのである。自分は、この目で確かに見た、この耳で確かに聞いた、と確信をもって言えることがらが、もっとたくさんあってよい。もちろん、体験というものは、かなり主観的なものであって、 偏りもあるだろう。しかし、それぞれの人間の個性というのは、結局のところ、そうした 偏りのことなのである。 偏りを 恐れて、個性的で確かな人生など、構築しうるはずがないではないか。
( 加藤秀俊「情報行動」)
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