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私が、文章わ書くことで
アジサイ の広場
さやか あおべ 高1
 文章を書くことでやっと生活できるようになったころ、言葉づかいについて
時折注意して下さる二、三の先輩があった。気付いたことは、自分たちの責任
において叱っておいてやらなければ、と思って下さったのだ。日本語は複雑な
成り立ちの歴史をもっている。それをいい加減に扱うことに対しての注意は、
先に生きた大人がまず子供に対して行うべき大切な義務の一つである。国を亡
ぼすのは武力だけではない。教育の大事ということを切実に思う機会が増えて
いる。今の若い者は、という前に、そんな若い者に誰がした、という声を聞か
なければならない。
 
 確かに最近はあまり「叱る」という事をする大人が少なくなっていると思う
。昔は他人の子供までを叱っていたそうだ。しかし、現在は、他人の子供のし
つけをどうして自分がしなければならないのかという感じの大人が多い。例え
ば、普通学校は間違ったことをしている人を、その子のためと思い、叱ると思
う。しかし私の学校の先生は、ある生徒が悪い事や間違った事をすると、「こ
れは全て、家庭のシツケが悪いんです!!!」という。両親にそういうことを言
うのならばまだ、先生の忠告ということで良い事かもしれないけれど、私の学
校の先生はそのことを生徒本人に言うのだ。つまり、その先生は、その生徒の
事を思って生徒を「叱っている」わけではなく、このことは自分の責任ではな
いと言ってただ「怒っている」だけなのだと私は思う。このように、他人の子
供の事を相手のためだと思って「叱る」、思いやりのある大人が少なくなって
きている。
 
 又、他人の子供を叱らないということは、他人の事はどうでもいいという自
分勝手な人間であると私は思う。確かに、他人の子供のシツケはその子の親が
すれば良いことである。「何で、自分が・・・。」という考えも分からなくは
ないが、その子のため、と思い、たった一言注意する事も惜しむなんて、かな
り自己中心的な人間であり、自分さえよければという自分勝手な人間である。
 
 確かに、最近はオヤジ狩りや、生徒が教師をナイフで刺すなどの事件もあり
、他人の子供を注意することも命懸けになりつつあるが、まずは学校の先生な
ど、子供を教育すべき立場にある人が、子供から信頼される人になり、一生懸
命に相手を思って叱れば、子供もそれにつられていろんなことを学んでいくの
ではないかと思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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