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アジサイ | の | 滝 | の広場 |
ペー吉 | / | うき | 中3 |
人間は自然に対して傲慢である。近代に入って、その傾向は大きくなってい |
る。最近話題になっているクローン技術というものがあるが、これがもし実用 |
化できる程に進歩すれば、地球上に他の生物はいらなくなり、すべてが人類と |
人類の作り出したものになってしまうだろう。だが、それは歓迎できることで |
はない。私たちはあくまで自然の一員なのだから、もっと自然と共存していく |
べきであると思う。驕りを捨て、自然の大きさと大切さをしっかりと認識して |
いくべきであると思う。 |
そのために私は、詩を書くことを薦めたい。詩でなくてもかまわない。絵画 |
でもいいし、陶芸でもいい。とにかく、創造のキャンパスに何かを描いて欲し |
い。そこでは、冷たい人工物でなく、自然を見たものの方が、鮮やかなものを |
映せるはずだ。もちろん社会の中のワンピースを取り出す詩というのもある。 |
しかし、私の体験になるのだが、急ぎ足で歩く雑多なコンクリート・ジャング |
ルでふと感じる悲しさよりも、風に吹かれひらりと舞い、けれどいつまでも地 |
面につこうとしない落ち葉の方が物悲しさを感じさせる。その感覚は少し見れ |
ば違うものだが、そのなんとも言えぬ感覚を感じた私は、両者を比べるともな |
く比べていた。そして、人は自然にやはり心を奪われるのだと、ぼんやり思っ |
たのだ。 |
また、そういったことが面倒くさい、或いは自信がないという人は、もう一 |
つの方法がある。それは、誰かの描いたものを少し変えて真似てほしい、とい |
うことだ。前述した創造のキャンパスに、他人のものを描くのだ。どう感じる |
だろう。きっと、とてもつまらないはずだ。それは、他人の作った土台によっ |
て方向性が決められてしまい、自分が創造したいものをうまく描けないからだ |
。クローン技術などが進歩して地球が人工物だけになれば、私たちが描くもの |
はすべて誰かが作りだしたものになってしまうのだ。芸術は歪み、言葉は解け |
る。人間が自然に成り代わった環境は、そんな恐ろしさを持っている。 |
確かに、押さえ切ることの難しい環境破壊から人類を救うには、新たな自然 |
を作ってしまうというのは有効だろう。しかし、それによって世界が人工物で |
閉ざされては、自然の風景のもつ柔らかさ、それを表す芸術は貧しくなってし |
まうだろう。自然との共存というのは、あちこちで難しさが叫ばれている。人 |
類は既にここまで進歩してしまった。今更どう立ち止まろうというのか。しか |
し、紀元前後にまたがった詩人であるセネカは、こう言っている。「何かに我 |
々が挑戦しようとしないのは、それが難しいからではない。それが難しいのは |
、我々がそれに挑戦しないからだ」と。私たちは、自然と共存していくべきだ |
。難しいかもしれない。より楽な道もあるのかもしれない。しかし、私は芸術 |
を守りたい。難しいかもしれないが、自然の中で、静かに歩む道を選びたいの |
である。 |