慰霊祭のたびに… |
アジサイ | の | 谷 | の広場 |
怜 | / | あもい | 中2 |
慰霊祭のたびに、「…皆様の尊い犠牲の上に今の平和があることを決して忘 |
れず…」という言い回しの官僚たちの挨拶を何度か聞いた。そのたびにそれは |
違うと思った。犠牲がなければ、今の平和がなかったわけではない。1944 |
年末の段階で大日本帝国ファシスト(軍国主義者)政権が降伏していればたく |
さんの人が死なずにすんだ。また、シンガポールや南京で死んだ人たちも、そ |
もそも日本軍が来なければ自分たちは…と言うはずである。その人たちの死を |
無駄と認めないのは、自分たち人間の愚かさを糊塗することに他ならない。覚 |
悟の犠牲ではなく、無念の死であったという前提から考えないかぎり、又同じ |
ことがくりかえされる。 |
実際に戦争を体験した人たちは、「もう2度と戦争してはならない。」と心 |
から願っているのだと思うが、戦争の体験がない若い人たちに「体験を共有す |
るために語り継ごう」ということだけでは、戦争を本当に止める力にはならな |
い。「どうして戦争が起こり、どうしたら戦争を止めることができるか」とい |
う研究は、まだ十分に行われているとは言えない。 |
確かに、戦争は、全く罪のない人ばかりが死んでいく。大切な人を失った人 |
の気持ちを考えなくてはいけないと思う。その人たちの「2度と戦争が起こり |
ませんように。」という願いは、私達よりも何倍、何十倍と強いのだろう。私 |
は5年前に広島の平和記念資料館を見学してきたが広島、長崎に落ちた原爆の |
恐ろしさを物語っていた。 |
50年たった今、各論として名誉の破片を拾う本はたくさん出た。しかし、 |
究極の責任を問う史書はまだ出ていない。名言に「未来には、ひとりでにでき |
る未来と、自分で作る未来との2つがある。」とある。私は、『自分で作る未 |
来』に注目するべきである、と思う。何事も挑戦。失敗も決して恥ずかしい事 |
ではない。なぜ、失敗したのか、なぜ、間違えたのか等をつきとめ、次回やる |
時、同じことをくりかえさぬように工夫することが、一番大切なことだと思う |
。原因から結果等、過程を大事にしたいと思う。 |