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「経験界で出会うあらゆる事物」を読んで
アジサイ の広場
○○○○ あう 大2
 私が大学へ入学したとき、一般教養の科目の一つとして美術と音楽を選択し
、履修した。もともと自分自身が芸術関係に関して大変疎く、がさつな性格を
改善したいという一種の自己啓発が理由の一つとしてあげられる。どちらの授
業も大変興味深い内容で勉強したかいはあったが、作品やその作者に関する知
識は以前よりも増えた一方で作品そのものを自分自身がどうのように感じ取る
のかということは以前と全く変わっていないのではないだろうかと考えるよう
になった。最近の傾向として、そのような自分自身がどのように感じるのかと
いうことよりも、知識が先行しているのではないかという指摘がある。そのよ
うな傾向が生まれた背景と対策について論じてみたいと思う。
 
 知識が先行するようになった傾向の原因として、ありきたりな答えかもしれ
ないがやはり、知識重視の教育や偏差値が考えられる。私自身、知識は知識と
して学ぶ価値はあると思うし、偏差値は現代社会では必要悪だと考えている。
しかし、偏差値により知識でも、一つ一つの要素を自分の頭の中で加工すると
いうより、鸚鵡返しのいわゆる「一問一答」がたの知識を重視するようになった
ということ、また偏差値にならないようなことは一切しないという傾向を生ん
でしまったことは否定できない。このようなことがおよそ偏差値の足しになら
ない実物の鑑賞などから人々の足を遠ざけることになってしまったのではない
だろうか。
 
 このような現状を変えるためにはどのようにするべきであろうか。抜本的に
変革するということは難しいが、実物を自分の目で見るということの下地を地
道な活動によって作り上げることしかないのではないだろうか。一般には個性
を評価した入試制度の導入や、自由研究の導入が主張されるが、仮に個性や自
由研究を入試制度に採り入れると、面接での返答の仕方や論述の書き方等がマ
ニュアル化してしまい、かえって逆効果となる可能性がある。したがって実物
を見るということを教えるには、受験とは切り離して地道な活動をするしかな
いのではないと私は考えている。
 
 冒頭の話に戻ると、確かに美術や音楽の授業を通して新しい知識を取入れる
ことによって、同じ鑑賞でもまた違った見方ができるようになったし、またた
だ実物をみて何かを感じた、それだけで終わるのでは決して実物を見たことを
有効に生かしたとは言えない。しかし、知識の偏重、特に一問一答型の知識の
偏重による問題はこれからも様々な形で表面化することが考えられる。したが
って実物を見る学習と知識を吸収する学習のバランスのとり方が、これからの
課題となるのではないだろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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