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ある書物がよい書物であるか
アジサイ の広場
さやか あおべ 高1
 
 
 
 まったくかかわりのない書物をよんだとき、そこに広場みたいなものがあれ
ば、それは著者が思い患った場所である。私はなぜ文章を書くようになったか
というと、書物の中では、たくさんの同類が見つけられたからである。しかし
ある時期、自分の周囲にいる人たちもみな、他者と疎通しないという思いに悩
まされていて私もまた、周囲の人たちからみると思いの通じない人間にみえて
いるにちがいないということがわかった。
 
 確かに、自分には他人にわからないような事情をかかえていているんだ、と
感じたり、みんなは悩み事がなくていいなあと思うことがよくある。例えば、
学校でいやなことがあった日の帰りの電車で、向かいの席の人が気持ちよさそ
うに寝ていると、「ああ、いいなあ。悩み事がなくて…」と思う。しかし、よ
く考えると自分もしょっちゅう電車の中で寝ているけれど、決して悩み事がな
いわけではない。つまり、自分のことは重大に評価しているけれど、他人のこ
とはあまり問題にしていないのだ。
 
 また、私が落ちこんでいるとき、友達がよく、「どうしたの?」の話しかけ
てくれる。もちろん、ありがたいと思うし、内容もきちんと話し、とても友達
に感謝するけれど、心の奥底では「たぶん全部はわからないだろう。」と思っ
ているところがけっこうあったりする。けれど、友達が落ち込んでいてだれか
に悩みを聞いてもらっているの見ても、あまり重要なことだと意識することは
少ない。もちろん、そんな非情なことを考えない人もいると思うが、人間とい
うものは、自分のことを過大評価しがちである。
 
 すべての場合において、相手が自分のことを理解するはずが無いと思ったり
、相手の悩みはちっぽけなものであると感じるわけではないと思う。しかし実
際は「自分と他人とは違う」と思ったりするものである。相手も自分とおなじ
ような悩みを持っているのだということを考えることは、すこし難しいかもし
れないけれど、努めて、他人にもいろいろな考えがあるのだということを自覚
していくことが、自分も相手も大事にできる方法であると思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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