サザンはファンに愛されている |
ウグイス | の | 滝 | の広場 |
がっちゃん | / | てな | 中3 |
「隔たり」ということがここでポイントとなる。演ずる者、演奏する者と見 |
る者、聞く者、つまりは見られるものと見るものとを空間的に分離する装置の |
中で、二つの距離が発生する。主体と対象との隔たりと、主体と唯の主体との |
隔たりである。しかし、1960年代に音楽や演劇や美術の世界に起こった反逆、 |
例えば演奏中に客が絶叫するようなライブ演奏とか、観客を演劇の中に巻き込 |
み、ストーリー展開のなかに偶然的な要素をどんどん導入していくハプニング |
などのパフォーマンスやテント小屋の実験演劇、などは、まさにこのような近 |
代の「芸術鑑賞」という制度そのものに攻撃の照準を合わせていたのであった |
。私はそのような民衆的な威張らない方を応援したいと思う。 |
そのための方法には、まず人のワガママな行動をなくす必要がある。公園に |
「犬のふんは飼い主が管理しよう」とか、「ゴミはごみ箱へ」という看板が立 |
っている。ごみ箱というのは、ゴミを捨てるためにあるものだし、犬のふんは |
飼い主が処理するというのは責任問題である。そのような当たり前な事ができ |
ないから、公園の芝生の上にはゴミを増やさないために「芝生に入ってはいけ |
ない」とか、犬のふんを増やさないために「ペットを連れてきてはいけない」 |
という立て札をよく見かけるのではないか。私達がもう少し責任感を持って物 |
事を行っていたら、これほどまでに規制されなかったのかもしれない。 |
それから、ステージや壇上でやっていることが客を引きつけ、客と一心同体 |
になるといいと思う。例えば、毎年大晦日に横浜マリーナで開かれる「サザン |
オールスターズ」の年越しライブ。私は実際に行ったわけではないが、テレビ |
で見た事がある。あのライブは、客とミュージシャンという隔たりを超えてい |
る。踊る客がいれば、叫ぶ客もいる。感動で泣く客もいれば、疲れて貧血で倒 |
れる客も。このように一心同体になれるのは、サザンを熱狂的に愛するファン |
がいるからだと思う。 |
しかし、なにもライブにファンだけが必要なのではない。10月の文化祭で |
私のクラスはライブをやった。ギターやボーカルなどを集め、机でステージを |
作った。今年の文化祭でライブという派手な事をやったのは、うちの他に1ク |
ラスしかなく、しかもそのクラスは私のクラスのパクリだったため、客はほと |
んどうちに来たのだった。まず、モーニング娘のラブマシーンを踊り、郷ひろ |
みの「あっちっちー」を踊り、客を暑くさせた後、ライブになった。もちろん |
、私のクラスのバンドにファンなどいない。しかし、客は叫んだり踊ったりし |
て楽しんでいた。これは私のクラスの実力でもあり、(自画自賛?)宣伝に興 |
味が湧いて集まってくれたお客さんのおかげでもあると思う。 |
確かに、クラシックやオペラなどで静かに聞いていたほうが、迷惑にもなら |
ずいいのかもしれない。それに、「英雄が歴史を作ったのではなく、歴史が英 |
雄を作ったのである」という名言の通り、観客席の明かりを消してステージと |
客に隔たりを作ったのは歴史である。そして、「脱皮できない蛇は滅びる」と |
いう名言があるように、古い歴史通りに新しい事に挑戦しなければ、結局何か |
が起こる。だから、古い歴史にとらわれずに新しくライブのように本当に楽し |
むことで、壇上の人間も来ている客も本当の快感を覚えるのではないか。 |