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芸術というものは、ある時理論を
アジサイ の広場
武照 あよ 高3
 その男は真面目に働いて、退職することには一財産を築き上げていた。金は
あれども、特に使い道はない。そこで男は大金をつぎ込んで、以前から悪かっ
た腸を人工の物にそっくり取り替えた。若返った男は、その後も企業を興して
成功。それで手にした金を、人工皮膚、人工心臓、人工臓器、対には人工脳と
次々と自らの手術に当てた。そして三百歳を過ぎたある日、男を診察していた
医師は彼の口の中を覗きながら言った。「おや、あなたにも人工でない部分が
あったのですね。そこに大臼歯が一本・・・。」
 
 これは筒井康隆の「にぎやかな未来」に載せられていた短編の一部分である
が、現在の日本文化はこの「男」のようなものではなかろうか。日本はいつの
時代も外国の文化を取り入れ、サイボーグ化してきた。しかし、いざ自分の体
を眺めて、いったい「自分」とはいったい何なのかと思うのである。これが現
在の日本文化への回帰現象の正体であろう。我々は、国際化にも馴染みきれず
、自らの原点をも見失いつつあるという中途半端な位置に生きているのである
 
 日本人の「原点」が失われてきた背景として、一つには歴史的な国力の弱さ
がある。島国ということもあろうが、日本はほとんどの時代において他国に追
従することによって「成長」してきた。実質的な意味で、対等な国交というも
のは、経済力が国力なり売る現在を除けば全く無かったといって良いだろう。
文化は高い所から低い所へと流れるのである。その中で日本人は、多くの物を
失ったであろうし、砂利のような吸収性という体質を育ててきた。現在の日本
回帰の風潮は、日本の経済において、対外的に自信を持ってきたことと無関係
ではないだろう。
 
 日本が文化を骨董品化してきたことも、原点喪失への流れを助長しているよ
うに思われる。文化を骨董品として扱うことは、野生動物を剥製にして博物館
にならべるのに似ている。そこにあるのは「形式」であって、日本人の「命」
が宿っているとは言い難い。日本文化を「古いから良い物」と認識しているな
らば、それが、現代において原点として呼び起こされることはないであろう。
映画監督の高畑勲が映画「ホーホケキョとなりの山田君」のインタビューの中
で「この映画を通して、山田家の『こたつ』を思い出して欲しい。」と言って
いたり、作家の星新一が「私の作品が古典ではなく、語り継がれる民話になれ
は」と書いていたことは興味深いことである。日本回帰が容易に「日本懐古」
や「古典偏重主義」に結びつくことに我々は注意しなければならない。
 
 たしかに自分の原点を捨てて国際化を図ったことは重要である。国際的な認
識なしに民族的な認識は有り得なかったであろう。我々は常に多くの情熱をも
って外の世界を眺めてきた。しかしそれと同じほど、自分に目を向けることが
必要ではなかったか。我々の民族の原点探しは「日本人」とは何か見つめ直す
ことに他ならない。
 
 筒井康隆の小説は次のように続いている。
 
 男は医師の言葉に答えて言った。「何を言っちょる。それは入れ歯じゃよ。
」そして機械音声の高い声をあげて高らかに笑った・・・。はたして「その時」
、日本人は笑えるであろうか
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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