| 大切なこと |
| イチゴ | の | 滝 | の広場 |
| 拓馬 | / | ねき | 中3 |
| あそびには多くの想像力や抽象的思考がはいってくるからきわめて多彩なも |
| のになる。またそれらは、同じ心の世界に遊んだもの同士として、対人関係の |
| 基盤を作る力を持っているのだろう。 |
| そして、遊びにはルールが不可欠である。それは、年代によってとらえかた |
| が変わってくる。幼いときは、ただただルールの言いなりだが、成長すると、 |
| ルールに従うのは集団に忠実であるためと悟り、みなで相談して改正できるよ |
| うになる。 |
| そうして試行錯誤することは、新しい精神の世界を生み出す基礎能力となる |
| のだから、大人はなるべくこの芽をつんでしまわないように、むしろ子供から |
| 学ぶように心がけたい。 |
| そう、あそびから学び取るものは、多大な自分の財産になる。これは、いく |
| ら根を詰めて教科書の内容を暗記しても手に入れられないものである。学問と |
| はまたちがった大切さがある。私も昔はいろいろと試行錯誤したものだ。いか |
| にして楽しく時をすごし、かつ金をかけないで、それでいてみんなが一つにな |
| れることは?と。結局なにも思いつかなかったりもするが、それもそれで何と |
| なく味があったものだ。今考えてみれば、面倒くさいことである。しかし、そ |
| の時代の私は、というよりその年代のほとんどの子供が、そう思わなかった。 |
| どうも子供は、大人から見て、「意味のない面倒くさいだけのこと」と思われて |
| いることも、楽しもうとするようである。そうしてえられたものが、財産にな |
| る。 |
| だが、皆「自分の将来の財産にするために、遊ぶように努めよう」と考えて |
| 遊んでいるはずがない。もしそうだとしたら、遊びというものは楽しいはずも |
| ない。では何故あそぶのか。それは、楽しいときを過ごすことが目的であると |
| 私はにらんでいる。誰であろうと、苦しいことより楽しいことの方が好きであ |
| ろう。その「楽しむ」手段として、「遊ぶ」ということが実行され、より楽しむ |
| ためにどうしたらよいか試行錯誤する。それが普通であった。しかし、今は、 |
| テレビゲームや、携帯型ゲーム機など、試行錯誤されたあとのものを楽しむ手 |
| 段が主流になっている。これでは前途したような財産は望めない。もちろん、 |
| ゲームが諸悪の根元であるというわけではない。このゲームは、我が日本が世 |
| 界に誇れる数少ない分野のうちの一つであるし、これが話しの話題の一つにな |
| ったり、現実空間ではありえないことをしたりと、いろいろ利点もある。だが |
| 、それでも、この「ゲーム」という遊びの手段は、どうしても「人間の成長」と |
| いう点では、先ほどのべた遊びには、はるかに劣る。何でもかんでも、遊べば |
| 良い、ということではない。時にはがまんして、学問を学ぶこともまた「人間 |
| の成長」には必要なことである。 |
| だから、大事なことは、「両立」である。であるけれども、それは難しい。あ |
| っちたてばこっちたたずというのが現状である。ではどうするか。できうる限 |
| り「両立」に近づけるよりほかないだろう。そのために真に必要なもの、それは |
| 「意識」である。何故学問を学ぶのか。何故遊びが財産になるのか。それらをし |
| っかりと考慮しなければならない。その上で、なにが必要かを考え、臨機応変 |
| に、遊ぶときは遊ぶ。学ぶときは学ぶという姿勢が大切である。「多すぎる休 |
| 息は、少なすぎる休息と同じように疲れさせる」というように、何か一つをず |
| うっとやっても、やりすぎはよくないっちゅうことである。ある程度適当なこ |
| とも、時には必要だ。 |