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言語と映像
イチゴ の広場
あやの あしわ
 現在、映像という視覚に訴える手法は、芸術や情報等の面で全盛期を送って
いる。目で見ただけで直ぐに何を伝えたいのかが解るというその接し安さがこ
こまで影響力を持つ理由だ。しかしその反面、人々はそこで視たものを鵜呑み
にしやすく、個人の意見の形成やある事象に対しての批判的精神には繋がらな
い。言い方を変えると、映像は人の考える力を失わせているのである。
 
 視覚文化の最も代表的で身近なものはやはりテレビではないか。テレビのほ
とんどの番組は私達視聴者が見る前に必ずといっても過言では無いほど演出と
して制作者側の手が加わり、彼らは私達の感情や意志を操ろうとしている。だ
がその裏側のことを知らない視聴者は演出家の思うがままに載せられて、視た
ものを信じ込み疑う心を奪われて、自ら思考し判断することを疎かにしてしま
う。
 
 人々が考えることを取り戻すためには、先ず認識の手段を映像に頼ることを
やめ、言語の存在意義を再認識することだ。「言葉」の性質、特徴、利点、そ
の影響力の可能性を再確認する必要がある。これまでは何かとその取っつきに
くさから人々に怪訝され続けていたが、今後は教育の場で言語を読み、理解す
る力を養わせ、言葉の更なる効果的な使い方を習得し、自由自在に自分の意見
や感情を表現出来るような技術を身につけさせるべきだと思う。
 
 映像は確かに便利である。これからもその率直さと親しみ安さを武器に時代
の先端を司るであろう。しかし映像だけで全てを知ることは出来ない。映像は
言語の代用には成れない。映像として独自の存在意義を見出し、それと言語と
を合体させることで、新たなる認識の手段が生まれるのではないか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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