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 現実が人間から遠ざかっている。いや、人間が現実から遠ざかろうとしてい
ると言うべきか。近年の技術の進歩は目覚しく、聖書においては神の偉業とさ
れた生命の創造すら人類は可能となった。クローン技術と呼ばれるそれは、人
類を量産する可能性、ひいては体を取り替え続けることによる不老不死をもた
らすことすら可能になりそうだ。しかし、そうしたつぎはぎの生命は、倫理的
・道徳的な面で多大な問題がある。クローンに限らず、例えば脳死患者からの
臓器移植といった技術も、人間をただの物品と扱う不気味さ、死体を切り張り
して生命にするという、さながらフランケンシュタインにも似た背徳性を秘め
ている。ところが技術は早足過ぎて、そういった“不気味さ”を認識し、嫌悪
するだけの精神が人間に根づいていない。我々には、技術をコントロールでき
るだけの、もっと円熟した精神が必要である。
 
 その方法は、非常にあたりまえで、けれどとても難しいものである。即ち『
世界を見る』ということだ。国々があり、人々が暮らす『世界』ではない。も
っと広い範囲の、もっと概念的な『世界』。生物が呼吸をし、食い、生きて、
愛し、死に、還る。宇宙的な視野で世界を見ること。そこに廻る理の大きさを
認識すること。抽象的な話になってしまって申し訳ないが、精神的な成長を、
世界に溶けるような感動を紡ぐには、悲しいが私のことばは足りなすぎる。き
っかけは些細なことにすぎない。考えて考え抜けば、そこにふっと答が見える
。今でも、切れ切れだが、一シーン一シーンを妙に鮮明に覚えている光景があ
る。私が小さかったころ、飼っていたインコが死んだ。檻の中で唐突に激しく
羽ばたいたかと思うと、必死で“生”へ突き立てていた爪がはがれたように、
彼女はふっと力を失って落ちた。庭に、墓と呼ぶには小さな穴を掘り、そこへ
ぐにゃりとした彼女の体を埋めた。微かに羽毛へ残った体温は、生命の残り香
のように指へからみついていた。数年が流れて、私は埋めた後の土を掘り返し
てみた。そこにはなにもなかった。彼女はどこにもいなかった。いや、土とし
ては在ったけれど、それは私の覚えている彼女の姿ではなかった。ぼんやりと
私は、『土にかえる』という言葉を認識した。それが私にとって一番身近な“
死”だった。体が内側から押されたように感じて、外界の情報が一瞬遮断され
る、それは感動と呼べたかもしれなかった。死は戻らない。冗談にも嘘にもな
らない。だからこそ我々は生きるのであり、そして彼女は“生きた”のだ、と
、当時はそこまで明確に言葉にできたわけではなかったが、そういったことを
感じたのを覚えている。
 
 歴史に伝えられる昔の人間は、精神的には非常によくできた人物が多かった
。彼らの生き様を学ぶことも、私がちっぽけな言葉で語るよりは方法として優
れているかもしれない。現代人は死を恐れ、死から逃げることを技術によって
実行しようとしている。しかし、なまじ半端に死への対抗手段ができてしまっ
たがために、現代人は立派な生き様からは遠く離れてしまっている気がする。
織田信長は、「人間五十年」と謡い、炎の中で自害を遂げた。釈迦は「悲しむ
ことはない」と言いながら安らかに逝った。無闇に命を粗末にしろ、と言って
いるのではない。彼らの潔さ、生きる姿勢を見習うべきだと思うのだ。すぐに
諦めるわけではない。けれど、ずるずると命にしがみつく必要はない。亀の甲
より年の功、年の功より刹那の幸。生き抜き逝き抜く決意が、我々には足りな
い。
 
 確かに、技術が進歩することは素晴らしい。それは人類の向上、人類の限界
の打破という意味では、非常に前向きで意味のあることだろう。しかし、それ
に付随して生じる社会的・倫理的な問題も受けとめるだけの心が、現代人には
足りていない。目まぐるしい技術の進歩は、早すぎた。人類は立ち止まり、じ
っくり腰を据えて考えてみるべきではないだろうか。そうしなければ未来は、
非人間的な、論理と計算によって支配される世界になってしまわないだろうか
。我々は人間であることは、覆しようがない。けれどこのままでは、多くの覆
しようがない現実を変革してきたように、我々は人間でなくなってしまうかも
しれない。立ち止まるべきだ。そして世界を、生きて逝く世界を見るべきだ。
いつか、誰もの精神が技術を追い越すその日まで。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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