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コンピューターに限らず
アジサイ の広場
さやか あおべ 高2
 コンピューターは使えない人が不器用な事がいけないのではない。堂々と「
使いにくいのは機械が悪い」と言える文化を創り出す必要がある。道具という
のは、規範性、手段性、透明性という条件を満たしていなければならない。人
間が機械に合わせるのではなく、機械が人間に合わせることが大切である。
 
 確かに、コンピューターは操作するのが面倒だし、ちょっと間違えれば危険
な事にもなり兼ねない。最近の若い人は子供の頃から機械になれているのでそ
んなに難しいと考える人もいないかもしれないけれど、機械に慣れてない人は
、時代に取り残されているような感じでかなり悲惨である。うちの母もその一
人である。今はもう出来るようになったが、昔はビデオの録画が出来なかった
。私にとって見れば、録画ボタンを押すだけで簡単じゃんと思うのだが。また
、マウスをクリックするスピードがかなり遅い。ダブルクリックをする時など
もマウスに指をしっかりと叩き付けている。こんな事を書くと私の母はかなり
の機械おんちなのではないかと思われるが、こんな事をしている人は世の中に
かなりいると思う。しかも、出来る人は、それは出来ない人が頭が悪いのだと
かいいがちである。しかし、人間が機械にあわせるのではなく、機械が人間に
合わせる事が大切である。でないと、機械の進歩はそこで止まってしまうし、
機械が使えない人は使える人にいつも引け目を感じていなければならなくなっ
てしまうのだ。
 
 また、ヨーロッパの歴史のなかでキリスト教は多くの市民に強制されてきた
が、そのキリスト教に市民が合わない内容だった事で、宗教改革が起きた。そ
の結果、市民達は自分たちにあったキリスト教を作る事に成功したのだ。もし
もその時市民達が文句を言わずにその宗教に自分たちを合わせていたならば、
まったくといっていいほど進歩はなかっただろう。
 
 確かに、文句ばかり言って自分は努力をしないということは自分自身が進歩
しないことであるし、「住めば都」ということばの通りなれれば結構出来るも
のなのかもしれない。しかし、人間が周りや機械に合わせるのではなく、機械
が人間に合わせるものでなければ人間は進歩していかないのだ。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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