先頭ページ 前ページ 次ページ 最終ページ
「美」に定義などない
 
 
part 1 《見直される「自然美」》
 
 近年、「超」高度経済成長を遂げ資本主義社会の頂点に立っている諸国家に
おいて、「自然美」なるものが見直されている。自然のすばらしさをたたえそ
の保護を叫ぶ団体も数多い。確かに、「自然美」は「人工美」では表現しきれ
ない領域をもっている。それに自然を見直すことはよいことだ。しかし、現在
我々が生きている社会はつねに自然と対峙した世界であることも忘れてはなら
ない。 
 
  part 2 《??「ありのままの自然」??》
 
 まず「自然美」について考える。それは「ありのままの自然」などと定義さ
れたりする。しかしそれは必ず「限定された自然」である。例えばあなたは「
自然美」と聞いたときに、周りに虫が飛んでいて得体の知れぬ獣が出てくるよ
うな場面を想像するだろうか。本当の自然を知らぬ現代人はえてして「夕日が
きれい」「緑のきれいな森」「小川のせせらぎ」・・・などのまさに理想郷を
自然に求める。生活苦などと言った現実は無視される。それは、苦のない都市
生活の中で時々見せる自然の優美さや、業者が不便さをうまく省いて作ったキ
ャンプ場で味わう自然の美しさ、というのがつまりは自然そのものなんだと錯
覚しているからである。
 
   part 3 《「人工美」の誕生》
 
 次に「人工美」が生まれたきっかけとは何だったのか。それはおそらくまだ
人間が産業革命を起こす前であり、自然の魔性に畏怖していた時代にさかのぼ
る。当時の人々も自然が見せる神秘的な美を求めてはいたが、それは恐ろしき
自然の中の一瞬・一部であり、美を味わうリスクが大きかった。そこで、ある
人は絵画で、またある人は音楽という形でその一瞬や一部分自然からを切り抜
いた。だからこそ人はそういった芸術家たちの作品をほしがり、また芸術家た
ちはよりリアルな作品を作ろうとしたのだ。だから芸術は所詮自然をコピーす
るにすぎないと言われてもしょうがない、というかそもそもコピーが目的なの
ではないか? と、このように僕は考える。そして「醜の対立概念」だとか「
自我を基調とした芸術」などというのはそれから派生したものだと思う。なぜ
派生したのか?それは「恐ろしき自然」を破壊し人の手による世界を作ろうと
したとき、あらゆるものを人工化に踏み切ったからだ。そういった社会の背景
とコピーの対象の消滅が近代で多く見られる完全人工芸術を生んだ。
 
  part 4 《軍配は割れる》
 
 このように、単に「自然美」と言っても自然のうちの全部が全部美しいわけ
ではないのだ。そしてまた「人工美」も、「醜の対立概念」だとか「自我を基
調とした芸術」と言った低俗なものばかりではない。なぜなら、現代では「人
工美」ばかりがあふれてはいるが、それらは充分に人々の心を感動させている
。結局のところどちらも良いものなのだ。「美」と呼ばれるだけの価値がある
のだから。そして、「美」には学者たちが難しく考えるような定義などないの
だ。他人に高尚だとか低俗だとか非難されようと、自分が感動できるものであ
れば、それだけでそれは「美」と呼べるのだ。また、「芸術に国境はない」な
どとよく言うが、同様に「美にジャンルはない」のではないか。「美」という
世界にしきりを入れること自体間違っている。「美」の世界を「自然美」だの
「人工美」だのと言って種分けしようなどと言う考えは捨てるべきだ。ただ、
付け加えておくが、自然の持つ美しさ、大切さを改めて見直すと言うことは、
単に「美」に限らず大事なことだ。
 
  part 5 《蛇足、であって重要なこと》
 
 また、「自然美」を求めすぎて現代社会を否定するのも問題である。少なく
とも自然を、その脅威を取り除くかのように、切り開いて創出された現代社会
に生きているからには、「ありのままの自然」を復活させるんだ、などという
資格などない。また、現代人に与えられた「自然美」堪能法はまさに「ガーデ
ニング」だ。自然の中の美を文字通り切り抜いてきて楽しむのだから。そう考
えれば「ガーデニングで我慢するか」などとは言えなくなるだろう。日本では
「盆栽」が「ガーデニング」と同じ位置付けにある。そしてその「盆栽」は、
自然が見せる「美」だけを身近におくという非常に贅沢なものだったに違いな
いのだから。 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ホームページ