一九七九年一月一七日から |
アジサイ | の | 丘 | の広場 |
武照 | / | あよ | 高3 |
「我社には他の研究機関の二十倍のコンピュータがある。ヒトゲノムが解析さ |
れることは医学の大きな発展に繋がる。私のしていることに何の問題があると |
いうのか。」DNA解析を今年終えたセレラ社のクレイグ・ベンダー社長は、 |
こう言い切った。ベンダー氏が圧倒的な速度で解析を始めた当時、DNAの特 |
許化を恐れた学界は、急ピッチでDNAの解析を始めることになる。これが「 |
ヒトゲノム解析競争」の幕開けとなった。その結果2030年に終了とも言われた |
解析計画は、2000年に終了し、ベンダー氏と学界が同時に医学雑誌に論文を掲 |
載することによって「ヒトゲノム解析競争」は無垢を閉じたのである。 |
ベンダー氏を評して、ある学者は「彼はブースターロケットなのさ。使い終 |
わった後、捨てられるのだ」と愉快そうに言っていたが、客観的に見てベンダ |
ー氏の働きは非常に大きかったを言わねばならない。ロケットと言えば、近頃 |
日本のロケット開発が失敗続きである。しかし、我々が日本の宇宙開発にNA |
SAと同等の技術を期待するのも土台無理な話と言わねばならない。日本の宇 |
宙開発は長年、憲法第九条の元、ミサイル開発に繋がるとして規制を受けてき |
たのである。米ソ冷戦を背景に、宇宙開発競争を繰り広げてきたNASAとは |
技術的にも経験的にも格段の開きがあると言って良い。(ドイツのナチス政権 |
の下、ミサイル開発を行なった人物が、アメリカでロケットを始めて飛ばした |
と言う。)これ以上例を挙げる必要はあるまい。人は「競争」によって団結す |
ることが出来るのであり、その進歩は計り知れないのである。我々は「競争」 |
の適度に働いている社会を目指さねばならないであろう。 |
しかし、現在は「競争」を悪の根元とし、脱競争化が主張されることが多い |
。特に教育の世界でそうなのだが、彼らの主張はこうである。「現在、教育現 |
場の荒廃が進んでいる。その原因は教育に偏差値などによって競争原理が組み |
込まれているからで、それが子供たちの心の荒廃を招いているのである。」一 |
見もっともらしいが、果たしてそうであろうか。「競争の無ければ本当に学生 |
生活は豊かになるのだろうか」と偏差値の生みの親、桑田昭三氏は書いている |
が全く同感である。脱競争論者は次のようにも言う。「競争は、人間間にある |
べき結合を弱くする。仲良くすれば我々は幸せに暮らせるよ」と。しかし我々 |
は社会主義の崩壊を見てきたではないか。競争の無い社会は互いの団結を弱め |
るのである。以前こんな話を聞いたことがある。林の中で、木は根から毒性の |
物質を出し、時に協力し合い互いに牽制しあっている。それによって、林の微 |
妙な関係は成り立っているのである。「競争」こそ「結合」を生み出すと言う |
ことをこの例は示している。 |
「競争」の生きた社会を作るためにはどうすれば良いのだろうか。それには |
、気楽に失敗できる社会を作ることが必要である。競争は勝者と敗者を生み出 |
す。しかし、敗者が常に勝者になるチャンスが常にある社会が必要である。不 |
況によって多数の労働者が再就職口が見つからず、ホームレス同然の生活をし |
ていることがテレビで流れたりした。しかし、それは終身雇用制による、敗者 |
を作らないできた経済構造の裏返しであると言って良い。競争の敗者が人生の |
敗者でない社会を作って行くことが必要なのである。 |
確かに、我々は競争原理の弊害を身を持って感じてきた。「過労死」は世界 |
の共通語である。「果てしない輪舞」とはミヒャエル・エンデの言葉だが、競 |
争が果たして人間の幸福に結びつくのかと言う問いは現代の永遠の問いには違 |
いない。しかし、我々は「競争の無い社会」に懐古的なユートピアを見ている |
のではあるまいか。脱競争化がただ時代に逆行するだけでは意味が無い。競争 |
をいかに無害な形でとり入れつつ新たな社会を生み出すかが我々に求められて |
いる。 |