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人間の正義とも悪とも言えない「曖昧」な部分

を自分色に染めよう!
アジサイ の広場
AE86 えや 高1
 アニメ化される前から絵本で「アンパンマン」を知っていたが、困った人を
助けるほのぼのした話が多くの好印象を持っていた。しかし、いく度か見せて
いるうちに、原作者やなせたかしは氏がテレビアニメ化を意識せずに絵本に描
いていたころの「アンパンマン」と、テレビアニメ「それいけアンパンマン」
が別物に思えてきた。最初の頃の絵本は、悪者バイキンマンが登場することも
少なかったが、アニメでは若干の例外は除いてバイキンマンが必ず登場し、悪
さの限りを尽くし、説得もさとしも通じず、最後はアンパンマンがお決まりの
台詞でやっつけるという、まるで水戸黄門のようなワンパターンを繰り返して
いる。『「それいけアンパンマン」は悪者はどこまでも悪い奴で叩きのめすし
かない』という考えを、幼い子供たちにインプットさせてしまいそうだ。逆に
、「ドラえもん」ではのび太がジャイアンにイジメられつつも「ドラえもん」
の道具を借りて解決するのだ。
 
 日本では物事を「相手より強い力」や「他人の力」で解決してすますアニメ
が多いが、もし、誰かにヒドイ目に遭わされている子供がいるとして、その子
のもとに「アンパンマン」は助けに来てくれないし「ドラえもん」は近くにい
ない。一体、どうすればいいのだろう?
 
 「アンパンマン」を見ている子供は深い事までは考えてないだろう。ただ単
に「正義か悪か」と捕らえいるのだろう。しかし、今のままの見方では本当の
人間を見抜けないのではないだろうか。本当の人間は奥が深く複雑である。正
義の面もあれば悪の面もある。そして、それ以上に多いのは「どちらとも言え
ない曖昧な部分」である。テレビと同じ見方で人を見てしまうと、その部分が
全く見えなくなるような気がする。だから、テレビとは違った見方をするべき
である。
 
 最近のアニメは開発コンセプトに「夢を与える」という課題があるのだろう
。だから「アンパンマン」にしろ「ドラえもん」にしろ、非現実的なコトが多
いのだろう。私もドラえもんがいたら助けて欲しいことや欲しい道具も一杯あ
る。もし私がドラえもんに「何でも好きな道具を君にあげる」と言われたら私
は迷わず「スペアポケット」と言う。もしダメなら「どこでもドア」である。
 
 私は正義を信じない。なぜなら「自分の思い込み」があるからだ。自分が「
正義」と思ってしまえば、自分の中ではどんな悪い事をしている人でも「正義
」と思ってしまうからである。そのよい例が「オウム真理教、法の華、ライフ
スペース」である。自分達では良いこと(?)をしてると思ってても、実際は
とんでもない事をやっているのだ。私は宗教とはそんなものだと思う。キリス
ト教ならイエスキリストがゼッタイだし、仏教なら仏がゼッタイである。この
ように、上に挙げた悪いコトをした宗教三組は、その悪い事をしろと指示を出
す人(教祖)がゼッタイなのだ。
 
 この様に、人間とは「正義とも悪とも言えない曖昧な部分」がたくさんある
のだ。そのあいまいな部分を正義に染めるも悪に染めるも自分や教祖なのだ。
私は人に何かを言われてやったり(要するに人に染められたくない)、人と同
じ事をするのは嫌いだ。だから私は宗教とかには入らない。自分の曖昧な部分
は自分で出来るだけ正義に近づけて染めていきたい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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