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…海にいるのは、あれは… アジサイ の広場
眠雨 うき 高1

 我々の文明も、曙光から大分時を経た。様々な不思議は徐々に解明されていき、「少し前には人がどのように創られているか」という、設計図すらも遂に
入手した。だが解明されていく『不思議』は、それが真実でありながらどこか不自然で、実感はとても薄い。ホルマリン漬けの脳を見せられて「これが心さ」 と言われても、納得できる人間は少ないだろう。天頂に昇っていく文明はしかし、かつて世界に息づいていた闇を追放し、忘れていく。我々は、太古人が無 知であったころの「非科学的な」物語を、もっと大切にするべきだろう。  

 そのための方法としては第一に、あまり幼いうちから世界の「真実」を教えないことが薦められる。教育制度も普及した現代の日本では、物語を生み出す
のはまだ科学に然程ふれていない幼い心である。科学的な観点から見れば馬鹿げた空想が、しかし我々に最も足りていない。無知ゆえにかれは、時に劇的な 物語を生みだす。そんな素晴らしい才能を、老いてから思い返せもしないほど、早くに埋もれさせては勿体無い。徐々に本人のうちで実感として何か世界の 『不思議』に対する科学的な探査欲求が生まれたときに、それは伝えられるのがいいだろう。私も最近は、残念なことに様々の「何故」を知ってしまってい る。いや、知らないことでもそれをつい科学的に、矛盾ないように考えてしまう。最近では、猫が何故魚を好むと言われるのかを先日考えた。だが驚いたこ とに、私は日本文化の魚との接触性や猫の動物的な習性の点からそれにアプローチしていた。猫は魚の滑やかな美しさに嫉妬しているとか、そうした物語は 思い浮かばなかった。どちらが面白い話を書けそうかと言えば、当然の如く後者であるのに。一応文系の人間を自称する私にも、科学はそれほどに浸透して いたのだった。  

 第二には、文章に深く接する機会をもっとつくることがあげられる。本なんかマンガと参考書しか読みませんよ、という人間が増えているのは最近の困っ
た傾向である。特に詩文など、高校でも読んでいる人間は全体の一割もいないのではないだろうか。文章による創造物は、当然のことだが物語の宝庫である 。科学とは関係ない視点で、しかし絶妙に言葉を切り取ってみせる文章。厳密に(というか朴念仁に)見ていけば、無生物に意志はないとかそんな情景は自 然学的に有り得ないとかいくらでも突っ込めるが、そんな野暮な吠え声には、どちらが果たして納得がいくかを考えれば、肩をすくめる他になにがあるだろ う。何かの「説明」に関する有名な例として、「人が生まれてくるときに泣くのは、阿呆どもの舞台に引きずり出されるのが悲しいからだ」というリア王の 台詞がある。この狂った王の言葉に、物語はある。この狂気こそが、利口であり正しくあろうとする我々に足りないものだろう。  

 確かに、科学に説明される「真実」をないがしろにするべきではない。真実は実感が難しいが、しかし確かなものをなにひとつ知らねば、物語は愚伝にす
らなりかねない。「真実」は必要だ。ただ、どちらもバランスよく配置されるべきなのに、何やら最近物語の比重がいたく軽くなっているような気がする。 ネバーランドはいまや無く、この世界で私たちは生きねばならないが、時折は夢見るのもやはりいい。科学は順調に進歩している昨今だが、懐かしい、まだ 火を知らなかったころの闇を、私たちは忘れてはいけないだろう。                                                    
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