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「方法」から「思考」 アジサイ の広場
太公望 うの 高1

 「機械」…。私は、(レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンの連中とともに)抗すべきこの「機械」について考えながら、ある予言的言説を思い起こした
。方法は、個人の自由な裁量権の及ぶ範囲を狭めてゆく。いや、その範囲を限りなくゼロに近づけてゆくことこそが、「方法」の理想なのである。「方法」 はあらゆる個人に入り込む。だがそう思うことと、自由気ままに暮らすことの間には厳然たる差異がある。つまり、「方法」によって裁断され、規定されて いるのだ。だがまた一方で、「方法」はそれが適用される側だけでなく、それを適用する側にまで、個体性を破壊する効果を及ぼす。  

 「方法」は、人類が効率的に皆同じレベルで生きていくためのマニュアルである。これは、人類を皆同じようにある一定方向に進めていく「機械」と言っ
ても良い。一見とても便利のような気がするが、さきに書いたように個人の自由を狭めるということである。今の大学生などには、「指示待ち人間」が多く なっている。自分から進んで何かをしようとせずに誰かから指示されてやっと行動するという人達だ。 これでは、日本の未来もどうしようもない。ではどうすればマニュアルに頼らずここの個性を引き出し、自由をつくることができるだろうか。  

 方法として第一にまず教育制度を改革することである。今の中、高等学校は、レベルの高い高校、大学に受かるために授業を受けるという感じである。つ
まり、授業では、考えるという一番人間にとって大事なことがかけているのである。答えだけをひたすら求めているだけで間にある考え方が抜けているので ある。例えば、私の学校の国語の授業で先生が登場人物の特徴について生徒に質問する。しかし、生徒は、答えようとせず先生が時計の秒針が刺した数字で 生徒を当てるという方法を待っているだけである。しかし、先生は、授業のやり方を変え元気のある生徒を何回も当てそこから授業を盛り上げていくことに した。そして、登場人物の特徴をいかにうまい言葉を当てはめるかと考えさせた。このように考えるという授業というのが必要なのである。現代社会で考え ることが少なくなってきているので少年犯罪などの先のことが考えられない少年の犯罪が増えているのではないかと感じる。  

 第二にマニュアルというものを少し減らしたほうがいいのではないかと思う。マニュアルという「方法」が増えた原因は社会に複雑な仕組みのものが増え
たことと人間が考えることが減ったことにあると思う。マニュアルという「方法」があるとそれに個人が縛られてしまい物事に臨機応変に対応できなくなる ということだ。それと、本来ある個々の差というものを無くしてみんな同じ機械人間にしている。私たち人間の得意なことは、考えることであるのだから考 えることを増やしマニュアルを減らしていくことである。  

 確かに、今の時代にマニュアルというものが必要である。これは、決してなくなるものではない。人間にとってマニュアルというものは考えのベースにな
っている。マニュアルが無ければこんな便利な生活もないであろうし豊かでもないはずである。  

 だが私たちは、人間であるのであるからやはり考えて生きていくことが大切である。マニュアルによる「方法」だけの世界を考えただけで恐ろしくなるは
ずである。「方法」という便利なものに人間がおどらされるというのは非常に情けないと思う。このような管理社会になっても人間が「考える」ということ を忘れないことが大切であると思う。  

 
                                             
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