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名前の存在 ウグイス の広場
陽子 いおあ 高1 名前というものを私は今の今までそんなに意識して使ってきた事はなかった。  

 大体名前というのものは、生まれてすぐに親もしくは、知り合いの人などに付けられ、少なくとも自分で選べるようなものなどでは決してないので、どん
なに奇抜な名前を付けられようともそれを拒否することは出来るはずもないのである。  

 その点私は、普通のネーミングセンスを持ち合わせた両親に恵まれた為「陽子」というごく平凡な名前を使用し日々を過ごしている。
 

 私には三つ年の離れた兄がいる。兄は両親にとって初めての子供だった為、名付け親は家長である父に託されたらしい。(もちろん私はその場に存在して
いない)  

 そして、みんなの期待を一身に受け、父が口にした名前はなんと、「五十六」である。
 

 さすがに普段、温厚な母もその名前には異議があったらしく話し合いの結果、兄の名前は「正博」というごく平凡な名前に決まったわけだが、この場合先
程の「普通のネーミングセンスを持ち合わせた両親」という言葉はしなくてはならない。普通のネーミングセンスを持ち合わせていたのは母だけだというこ とに。  

 そして、私の名前のいわれを一度母に聞いたことがある。
 

 それは、やはり読んで字の如く「太陽のように明るく元気な子」に育って欲しいという母の願いからだという。ここで名付け親を父に任せないということ
は、やはり父の「五十六」発言が長く尾をひいているのだろう。自業自得とでもいうだろうが、私は普通の名前を付けてくれた母にとても感謝している。  

 なぜなら、名前というものはこれから十年、二十年先もずっと使い続けていかなければならないからである。
 

 だからといって、個性的な名前が悪いとばかりは言っていられない。個性的ということは、その存在だけで人の目を引き付けたり、あるいは親しみを込め
て呼ばれるということが無いとは、言い切れないからである。  

 名前というものは、世の中にいる多くの人間を区別するもので、その必要性は今も昔もそして未来も変わらず存在すると私は思う。
                                     
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