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清書:日本語の冗語性 イチゴ の広場
弥生 いきか

 日本人は内の関係と外の関係を巧みに使い分ける。1番基本の内の関係は家族だが、自分の所属している会社と取引先などの間にもこの関係が生じ、待遇
表現でもそれが表れる。日本の会社のオフィスを考えてみると、個別に区切られた欧米のオフィスなどと違い、上に立つ人の周りに部下たちが配置され、家 族的な印象をうける。このような状況だとお互いを察し合う機会が増え、自然と冗語性が低い会話が多くなる。  

 ブラジルで教え始めた頃、私はこのことにあまり気づかずに、日本の子供に説明するのと同じようにブラジルの子供に物事を説明したが、ほとんどの子供
が理解できなかった。ブラジルで何かを説明する時は必ず1から10まできっちり説明しなければ質問の嵐になる。それは、ブラジルでは相手が何を考えてそ う言っているのか、何のために今これをするのかなどをあまり考えず、言葉として表れることのみに重点を置いているからだと思う。日本のようにお互いを 察し合うということはない。  

 しかし、これからの国際社会では冗語性も必要になる。外国へ出ることがなくても、日本の外国人人口は増えており、仕事仲間が外国人になったり、隣に
住む人が外国人になったりすることもあるだろう。そうなってくると、冗語性の低い会話だけでは、お互いに理解することができない。内と外の関係を使い 分けているように、冗語性も相手によって使い分ける必要がある。  

 たしかに、法律や外交では冗語性が必要だ。日本の外交ではまだまだ冗語性が低いようで、諸外国から批判されることもある。しかし、うち向きには冗語
性の低さも残していくべきだ。言語はコミュニケーションのすべてではなく、その1部にすぎない。互いの表情や状況などを察し合って会話してこそ本当の コミュニケーションであり、心と心のつながりができるのだ。日本語はその点において、最も優れた言語なのである。                                                    
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