先頭ページ 前ページ 次ページ 最終ページ
アジサイ の広場
Lisa あいす 高1

 原始社会での「庭」は集団全体の広場だった。しかし、平安時代になると「庭」は一般庶民には閉ざされたものとなり、室町時代になると「庭」は眺める
だけのものとなっていった。つまり、かつて見られた庭園の美的さ高さ、きびしさ、純粋さが失われ、卑小なものへと変わっていってしまったのだ。これか らは、誰もが自由に「庭」を使え、自己表現の場ともなり、規制のない公共的なものとなっていくべきである。  

 そのためには、物事に対して寛大になる必要がある。非行を恐れて、火事を恐れて、近所の人々からの苦情を恐れて「庭」を使用するにあたってのきまり
を作っているのでは、いつまでたっても、「庭」は自由な場所にはならない。私がアメリカでホームステイしていた家の庭は、個人個人の庭というものでは なかった。近所の庭は全部つながった広場となっていて、そこで近所の小さい子が遊んでいたり、ペットをはなしたり、どの家庭も自由に使っていた。日本 庭園で、盆栽を1人孤独に手入れしている姿とはまるで反対で、自由で活発に動ける場所であった。バーベキューをしても、どんなに子供が騒いでいても、苦 情を言う家などはなく、むしろそれに混じって共にお喋りをすりというような空間であった。  

 また、庭にたいする人々の意識を変えることが大切だ。もっと庭に対して期待しなければ、今のまま変わることはないだろう。庭はただ見るだけのものと
決めつけていて、何もしないのでは自由な空間は得られない。「庭はどんなことでもできるんだぞ」ぐらいの勢いで考えれば、本当になんでもできるのだ。 これは公園にもいえることである。私の家の近くにある公園は、はっきりいってなんでもできる。田んぼも畑もたくさんあるので、田植えや稲刈りが経験で きるし、収穫祭に行けばおいしいおもちが食べられる。公園らしいブランコやシーソーはないが、読書や編み物、ひなたぼっこや日光浴、フリスピー、ピク ニック、それこそなんでもできる空間だ。最近は忙しくてあまり行かないが、小学生のころは散歩がてらよく遊びにいったものだ。このような公園はめった に見ることができないが、どんなに小さな公園や庭でも、期待すれば可能性は広がってくるのだ。  

 たしかに、きれいに整えてある庭というものは、心をおちつかせてくれる。ワイワイ騒がしいところではおちつくことさえもできないが、ひっそりとした
庭で一人物思いにふけるということもたまには大切かもしれない。しかし、「欲望があるから、バラはバラらしく花を咲かせている」というように、庭を自 由で公共的な場所として人々が求めれば、それはかなうのだ。奈良や京都には、見るだけの「庭」はたくさんある。たまに旅行がてらそれらを見物し、心を 休めることは大切だ。しかし、それはたまに見るからしみじみするのであって、普段は人々が共通して自由になんでもできる空間というものが必要なのだ。 庭に期待し、庭を活用すつことは、すべての人にとってプラスなことである。  

 
                                                 
ホームページ