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自分の体の価値 アジサイ の広場
横浜太郎 あわか 高1

 最近、脳死した人の臓器提供の話題が、よくメディアで取り上げられる。国会でも脳死、臓器提供に関する法案が審議された。また、たまに臓器提供意思
表示カードなるものも見かける。なぜ今、これほどまでに脳死、臓器提供が叫ばれているのだろうか。脳死、臓器提供とは、われわれにとって、いったい何 なのだろうか。  

 小学生のときプレゼントされた「目からうろこ 小学生の大疑問100」(講談社)によると、「脳死」とは、〔まだ心臓は動いているが、脳の働きがまっ
たくとまってしまったような状態・・・〕としている。つまり、一般的に言う、人間の「死」の条件、「呼吸が停止する」・「心臓の動きが停止する」・「瞳孔が 開きっぱなしになる」の3つとは当てはまらないから、脳死とは、従来の死とはまったく別の「死」ということになる。ちなみに「目から・・・」を読むと、脳 死は脳が機能していないため、思考はおろか呼吸すら人工呼吸器がなければままならない。ここが植物状態と違うところで、植物状態は思考はできないが自 力呼吸は可能だ。人工呼吸器があれば脳死者でも呼吸は可能なので、脳死の場合、どこからが死なのかという基準が難しくて、「脳死状態になったときが“ 死”だ」という人もあれば「人工呼吸器をつけても呼吸不能になったときが“死”だ」という人もあり、結構もめたらしい。  

 ニューギニアには、「食人族」と呼ばれる人たちがいまだに住んでいるようだ。「食人族」とは、読んで字のごとく人の肉を食べる人たちである。「うへ
っ!?」と思うだろう。まあ、葬式のとき、死体の肉を食べるのだが、その人たち曰く、「日本人はどうやって死体の処理をしているんだ?えっ、火葬?それ じゃあ熱くて可愛そうだろう」。見事に習慣の違いが表れた。どちらが良いとは言えないが、死体の肉を食うということは、存在価値のなくなった(失礼!!) ものを「有効利用」しているのだ。火葬はただ灰にしてしまうだけで、有効利用はされていないが(多分)。  

 ここ数年、「バリアフリー」なる言葉をよく聞くようになった。ノンステップバスや駅のエレベーター設置の強化、段差のない道路、施設の内外へのスロ
ープ設置など。ほかにもいろいろと行われている。なぜ「バリアフリー」なのか。僕の答えは(すごく一般論の気がするのだが・・・)、どんな人でも同じように 住みやすい場所をつくるため、ということ。確かに、われわれ「健常者」(この言葉が正しいのか疑問だが) だけがすみやすい所であれば、何もこのようにする必要はない。しかし、われわれは今まで、生活に対する“ハンディ”を持っている人たちを、「障害者」 というひとつの言葉で片付けてきてしまっていたのではないか。こんなことをいうのは何だが、誰でも自分の周りに“ハンディ”を負った人たちがいないほ うがいい、という思いを持っていると思う。非人道的だと非難されるかもわからない。だが、現に子供が生まれるとき、「五体満足であればそれでいい」と 言ったり思ったりする人が何人いるだろうか。そこまで思わないにしろ、「頭のいい子と悪い子、どちらか選べ」と言われたら、頭のいい子を選ぶ人が大多 数を占めるのではないか。ほとんど皆、“ハンディ”なんてないほうがいいと思っていると思う。それで、なるべく“ハンディ”を負った人とかかわりたく ない、あるいはかかわり方がわからないと言う思いがあるのだと思う。結局それが、“ハンディ”を負っていない人だけの主張でつくられる場所、未来にな  

 現在、うちの家族で臓器提供の意思表示カードを持っている人はいない。以前、生協か何かでカードを見つけてきたので両親に書くよう勧めたら、やはり
死後、体を切りきざまれるということに抵抗があり、結局書かなかった。そういう人も多いと思う。僕の考えは、現在はこの体は僕のだ。僕のだという認識 があるから。しかし死んでしまったら、単なる肉の塊に過ぎない。確かに、生きているときに、自分のために華やかなパーティーをやってもらったらうれし い。しかし、死んで自分のためにパーティーをやってもらっても何にもうれしくない。そんなパーティーをやって、全部灰にされてしまうのなら、この体を 、世の中の“ハンディ”を負った人の、“ハンディ”を埋めるために使ってほしいと思う。この体は自分だけでつくられたものではなく、周りの人たちの支 えが合ってできたものであることはよくわかっている。だから、せっかくつくってもらったのに、それをみすみす灰にしてしまっては惜しいし、支えてくれ た人たちに申し訳ない。「喜んで行い、そして、行ったことを喜べる人間は幸福だ」とは、ドイツの思想家フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェの言葉だ が、僕も、もし「脳死者」と呼ばれるようになったとき、僕の臓器を必要としている人に、喜んで与えてあげられるような、そんな人間になりたいと思う。  

 
                                               
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