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今の童話 アジサイ の広場
あおき 高3 ☆先生へ  

 え~っと、これはグリム童話初版の「白雪姫」の冒頭部分と結末の抜粋の文があり、「今日一般に知られている物語との違いを念頭においておもうことを
書け」という問題です。一応文章がありますので、木曜日にFAXするので宜しいですか?とりあえず書いたものだけ遅らせていただきます。  

 
 

 ☆~本文~☆
 

 
 

 子供は純粋であり、無知でもある。大人の為すことや言うこと一つ一つに興味があり、不思議でたまらない。そこで、「なぜ?」「どうして?」と根ほり
葉ほりと聞きたがるのである。大人が説明できるうちはまだいい。しかし、子どもの“何故”は大人が思っているよりもずっと果てしないものがある。そこ で登場するのが、童話や絵本といった類なのだ。  

 大人が子供の質問に答えられないとき、又あまりにも綺麗ごとで大人が言うにははばかられることを、童話はいともたやすく代弁してくれる。口では言え
ないそれを、子供は心の底で感じとって、大きくなってゆくのである。そう、童話とは言わば教訓書なのだ。  

 しかし、近年こういった童話は変わってきているように思われる。数年前、作家の桐生操さんが“本当は恐ろしいグリム童話”なるものを出版したが、そ
れはこの話同様内容が微妙に変わっていた。今まで知られていた童話が、残酷な話へとすりかわっていたのである。一つ一つのシーンが不気味さをおび、だ んだんと照明がおとされてゆくのである。しかし、これらの本は大人たちの間に大反響を呼んだ。そして、すぐにベストセラーとなったのだ。  

 人は、大人になって物事には裏がある事を知る。受け入れなければいけない、また説明出来ない事実があることを知る。そして、綺麗事で育ってきた子供
が大人になろうとする時、世の中は残酷であることを知るのだ。そこで求めるのがこの矛盾への説明である。  

 それが、この残酷な童話なのだ。この残酷な話は、もはや子供のためのものではなくなった。いや、むしろ昔グリム兄弟が書いた原文に近づいただけなの
だ。登場人物の主観がなく、ナレーターだけによって推し進められるこの客観的残酷な童話の中に、矛盾の中でなんとなく生きている自分の姿を見る。そし て、それは残酷さを得れば得るほど現実化してゆくのだ。我々は言い得ないそれを見て安心し、また今の不安な我らの心を鏡(=童話)に映しだそうと試み るのだ。本当に綺麗なのは誰なのか…?と。それは、大人たちの美しかった子供時代への帰属願望が呼んだものなのかもしれない。  

  
                                     
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