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花の絵を描き始める時 アジサイ の広場
友葵 あしも 小5 花の絵を描き始める時     2001・8・11  

 同じ名前がついている花でもよく見ると、一つ一つが人間の顔が違うように、それぞれの表情を持っているからである。咲き終わって花びらが茶色くなっ
てしまったのも……、それは決して死んだ花ではなく一生懸命生きて、いま実を結び始めた最もすばらしい時期を迎えているのではないのだろうか。花の色 が一日にして変化するのだから、まして心を持っている人を見るとき、自分のわずかな秤で決めつけてしまうのなんて全く間違っていると思う。  

 私は、この長文を読んで一番悲しいと思ったことがある。それは、カサブランカの花びらが茶色になったので捨ててしまったことである。この長文のよう
に、一生懸命に、私達にきれいな花を見せてくれていたのに、  

 「かわいそうな事をしたなぁ…。」
 

 と思う。“後悔先立たず”だから、後悔をしても仕方がない。だから今度からは、一生懸命に生きていた花を、見送ってあげたい。
 

 花も、人間も、それぞれの顔がある。だから、魚も、よ〜く見れば、それぞれの顔が違う。私の飼っているメダカ(親メダカ)には、全部名前がついてい
るのだ。他の人から見たら、  

 「こんなのどれも一緒じゃん!」
 

 と、思うだろう。でも私から見れば、
 

 「これは、タンポポちゃんで、あれが……」
 

 と、すぐにわかる。やっぱり、魚だってそれぞれの顔があるのだ。
 

 それぞれの顔があるということは、心がそれぞれあるということだ。心があるということは、気持ちがあるはずだ。そういうふうに、考えた時私は、 「
じゃあ、花も、『私ってキレイだわ。』とか、『私、汚れてる…』と喜んだり、悲しんだりするのかな?」 と思う。もし、これが本当だったら、花に声に 出して言ってほしい(笑)、と思う。  

 私はこの長文を読んで、“花もちゃんと人間のように生きている”ということを改めて実感した。 
                                   
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