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このような時代にこそ必要なもの アジサイの広場
横浜太郎あわか高1

 現在日本をはじめ世界の多くの国が、物理的な進歩を主とした文明発展に力を注いでいる。その中で、多くの神話、迷信などが切り捨てられてき
たという。そして「神話や迷信には、確かに好奇心をそそるものがあるが、実質的な有益事項ではない」というようなことをいう人が数多くいる。 現に、「あなたは霊の存在を信じますか」といった質問がよく出るが(少なくとも僕の周りでは)、「信じる」と答えた人でも理由を問われると、

「ただなんとなく」や「テレビでいるといっていたから」などといった答えが目立ち、実体験的に存在を肯定するという人はかなり少ないだろうと
 

 また神話を読むと、「そんな馬鹿な」と思えることが確かにでてくる。例をあげると、イカロスは蝋で作った翼で空を飛んだが、太陽に近づきす
ぎて翼が溶けて墜死したという。この話は、現代の学問で見るとおかしなところが数多くある。例えば、蝋で作った翼で空を飛べるのか。これは、 よほど薄くつくれば“翼”としては使用可能であろう。しかしその原動力が、翼を手につけて羽ばたくとなると、翼の断面、つまり揚力に対して抗 力の値が大きくなり、多くの先人がおかした失敗そのままとなることはまず間違いないだろう。さらに、太陽の熱で溶けたというが、地球は上空に 行くほど気温が下がるのは周知の通りであろう。仮に蝋が溶けるほど太陽の近くまで行ったのではないかと考えてみても、宇宙では落ちるという概 念がない。第一、大気のない宇宙では呼吸ができず、落ちるよりも先に窒息死してしまう。以上、ながながと説明した通り、神話には矛盾が多いの  

 では、矛盾点が多すぎるからと切り捨ててよいものだろうか。我々は映画を見て、感動し、興奮する。その映画の多くは、どこかに「矛盾点」が
ある場合が多い。例えば、記録的ヒットを生み出した「マトリックス」。あの映画は、はっきり言って矛盾の塊みたいなもので、作品としてみなけ ればただの気違いの発想のようなものになってしまう。また、宮崎アニメももろに神話的な発想が用いられていると思う。しかし、これらはおもし ろい。また、人生の道しるべとさえなるものもある。神話や迷信は、理解しようとしないから、「どうせ迷信だろ」などと軽くあしらわれているの  

 サン・テグジュペリは「心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは目に見えないんだよ」といっている。この約200
年間、我々人類は目で見える文明を追求してきた。しかしその結果、人の心は廃れ、未だに痛ましい事件が日常茶飯事のようにおきている。こんな 今だからこそ、我々は目に見えない、“心で納得”することを理解する力を身に付けなければならないのかもしれない。  

 
                                                 
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