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体に帰る アジサイの広場
稔央いつや

 良いものと悪いものとを分けるのは単純なようでいて非常に難しい。そもそも何をもって良しとするのかによってその答えは大きく左右される。
ある商品が、商品の質を重視する人にとっては申し分のないものであっても、一方で値段が安いことに価値を置く人にとっては満足できないものか もしれない。  

 Oリングは、ずばり自分の体にとって良いかどうかという一つの項目に絞って決めるという前提に立っているという点で画期的であるし、そこが
一番の強みでもある。少なくとも食品に関して言えば、安全かどうかは大半の人間にとって最重要チェック項目である。  

 基準が多岐にわたるということ以外にもう一つ、ものの良し悪しを決めるのを難しくしている要因に情報が不足していることが考えられる。例え
ばある食品が成分表示外の添加物を加えられていたとしても、その情報を唯一持っている企業は売上に影響が出ることを考えれば情報を公開しない だろう。食品添加物の害を心配する消費者は成分表示を信頼して商品を買うかどうか決めるわけだが、彼らがいかに食品添加物についての知識を持 っていて栄養学に基づいた判断を下したとしても成分表示に嘘があれば消費者の判断は間違っていたことになる。商売をする人たちの間では「屏風 と商売は曲がらにゃ立たぬ」という諺が半ば常識化しているそうだ。消費者は騙して当たり前、消費者の側も騙されるのを覚悟しているはずだと考 えているのだ。つまり、商品に関して言えば基本的に消費者にはいいものか悪いものかを本当に正しく決める権利はないのである。風評だとか雰囲 気だとか、何かはっきりしないものに頼らざるを得なかった。  

 Oリングが画期的なのは答えが自分の体の中にあることを発見したことである。なぜなら、ある物が良いか悪いかを決める場合に参考にしたのは
知識やそれをまとめる理論の体系や学説といった抽象的な共有財産だった。それらは自分の外部に自分と無関係に存在していて、尚且つ先に述べた 情報の不足という事態には全く為す術がないという欠点を抱えている。ところがOリングを使って答えを聞くのは自分の体である。自分の体にとっ て良いかどうかを自分の体に聞くのは考えてみれば当然のことである。しかし科学を信頼するようになって以来、この基本に帰ってくるまでの道の りは実に長いものだった。  

 
                                                 
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