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ボランティア活動 アジサイの広場
UZI.SMGそお高2

 まず、ボランティアについての筆者の考え方をまとめてみたい。アメリカではボランティア精神が発達している。その理由は、キリスト教という
バックボーンがあり、また時間的余裕に満ちていることにある。さらに、建国以来の伝統として、個人を互いに尊重し合い、強調していこうという 精神がある。一方日本では、それらの要素にかけている。だが、仏教的な因果応報の姿勢には、相互扶助の精神が見られるし、農耕民族としての助 け合いの精神も存在することは確かだ。また、少しずつ時間的余裕が生まれてきている。こうした要因を考えれば、日本にもボランティアの精神が 根付く地盤はあるといえる。  

 
 

 さて、ボランティア活動と聞いて何を連想するだろうか。僕は、タダで働くことを思った。人によっては、利益がなくて無駄なことと捉える人も
いる。実際友達が、アホくさいと言っているのを聞いたし、その一方で他の友達は献血やら募金やらの活動に手伝いに行っていたりする。このよう にボランティア活動については様々なイメージがあるようだ。ボランティアの精神が根付くといっても、その精神以前に、ボランティアに対する意 味付けや目的意識など、個々のイメージが曖昧なことは事実だろう。  

 
 

 このように、ボランティアについてイメージが沸かないとか、どうせよくわからん、といって見てみぬ振りをするのはいかがなものか。調べてみ
れば、いろいろとボランティア活動と銘打ったものが、確かに存在する。老人介護、環境美化、ちょっとした手伝いやら、献血や募金、最近ではパ ソコンのレクチャーなんかもあるようだ。だが存在はしても、自分を含め多くの人が体験していないのではないか。経験せずして、ボランティアに ついて語ることは出来ないだろう。何かの機会にやってみるべきことではある。  

 
 

 ボランティア未経験者からいうのも難だが、ボランティア活動には即物的な利益ではない何かがあるのではないか。もしくは、利益の存在しない
行動なのかもしれない。確かに筆者の言うように、助け合いの精神の表れかもしれないが、助け合いだけならば日常生活でも何気なくやっているは ずだ。わざわざやることに意味があるのか。体験しなければわからないことである。また、筆者の意見に指摘したいことは、アメリカを例にとって いるが、アメリカ人たちはどのようなことに対してボランティアと呼ぶのだろうか。この点がはっきりしないと、もしかすると日本人も気付かない だけで何気なくボランティアをしているかもしれない。筆者の意見でのボランティアに対して僕は、何か労働の一種のような重々しさを感じてしま ったのだが、気軽なことから始められるのではないか。外国事情について、あらゆる条件を剥ぎ取って事実だけを提示して、例とするのは良くない  

 
                                           
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