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感受性の衰退 イチゴの広場
眠雨うき高2

 建築には目的がある。居住のスペース、仕事場、展示場など、具体的には多岐に渡るが、建造物の機能はその目的のために選別される。当然目的
を果たすためには効率の良い様式というものがあり、建造物はそれを念頭に置いてつくられる。しかしそうした機能本位の建築が先行するあまりに 、人間の建造物は風景との調和や趣きを無視しつつある。風景を感じ愛でる心の廃れは、資本主義・合理主義の社会に潜む問題であろう。  

 ではなぜ風景の無視が現在進んでいるのだろうか。その原因として第一に、資本主義経済の孕む個人主義が考えられる。資本主義とは言うなれば
個人の経済である。社会を構成する各個人の利潤追求を原動力として経済を運営するというその形式は、ともすれば自らの利潤を上げるため、他者 のことを考えなくなっていきかねない。風景の美しさというのが周囲との調和を指すとするならば、目的本位の建造物たちが風景に溶け込むわけも ない。低い建物ばかりの田舎町に、ある日突然観光客向けのホテルが立ったらどうなるだろうか。それ単体は利潤を生み出すかもしれないが、町の パーツ、風景の構成物として見るならば、ひどく美観を損なう危険性が高い。  

 またもう一つの原因として、目的本位の考え方が突き詰ったと言おうか、仕事の環境と風景を楽しむ環境の分業化が進んでいることもあげられる
かもしれない。芝浦や新宿のオフィスビルが乱雑に立ち並ぶ風景とリゾート地の風景の、相互の優美さの差異は比べるべくもない。それほど極端な 例でなくても、例えば家の庭に池があったりマンションの合間に芝生があったりと、雑多さと調和して存在はしないまでも、風景を隔離して楽しも うという傾向があちこちに見られる。古くは滝や石庭を作った日本の庭園やビクトリア王朝の噴水庭園など、敢えて既存の風景を保護しようとはせ ずに人工の風景を造ってしまう傾向は人間に根が深い。しかしそこでなんとか風景に格好をつけて多少の安心感を得たとしても、それは結局予定さ れた美である。本来的には関連のないものが無限の関連を経てひとつの風景を完成させる奥行きや感動は、そこでは小さい。  

 たしかに建築の本来的な目的を遂行するのは大切なことであるし、誰もが利潤から一歩引いて資本主義に取り組めば、経済はたちまち揺らいでし
まう。我々は糧食がなければ生きていけず、糧食を得るには金銭が必要だ。しかし金銭に毒される余り、我々の風景に対する感受性の目まで閉ざし てしまっては本末転倒であろう。感受性は人間を豊かにする。財産でなく、心を豊かにする。美しい風景は人の心を癒すが、多額の金銭は人の心を 別段癒しはしない。日本の産業は豊かになった。不景気が騒がれているが、それでも人の生活は思いのほか豊かだ。それならば我々は今一度、風景 に感動し調和する生き方を歩んでみるのもいいのではないだろうか。                                                    
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