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叱
アジサイの道の広場
たこたこ/こむ高1
小学校、中学校、高等学校の国語教育に関しては、自覚と誇りをもって「叱る」先生は、多くてもいいと私は思う。
生徒を怒るのはいたって簡単だが、日常の言葉遣いについて、はっきりした自覚と誇りをもって生徒を叱るために、教師自身の言語生活の訓練と
充実が前提になる。教師の知識だけに頼っていても、教師の言語感覚、言葉遣いの好みだけに頼っていてもいけないのが国語教育のはずだから、叱
る以上は、教師にも覚悟がいる。
中学生の頃、吹奏楽に入っていて、あまり注意をしてくれなかった先輩がいた。そんな先輩は失礼ながらも名前すら覚えていない。しかし、今高
校生となって吹奏楽部にまた入っているのだが、今度は時にはちょっとばかりきつい言葉で注意してくれる先輩がいる。きっとその先輩のことは忘
れないだろうとおもう。物事をはっきりと注意してくれる先生、先輩はよく思い出として残り、特に注意してくれない先生、先輩はあまり思い出と
して残らない。
その時に叱らず、注意せずにほうっておくことは簡単かもしれないが、そのままほうっておいたら今後において大変なことになってしまう。現に
、中学生の頃自分たちの代で後輩に対して全く注意しなかったパートがあるのだが、聞いた話によると今そのパートは壊滅状態だという(反省)。
叱られた側としては気分は悪いが、それはのちに必ずいいこととなって反映される。また吹奏楽の話を出すが、年のせいも少しはあるだろうが中
学生の頃の自分と比べると毎日のように注意されている今の自分は伸びが見違える程に良いと思う。
「失敗する=叱られる」と考えると、「失敗は成功の母」という言葉がよくあてはまると思う。叱られることは決して悪いことではなく、そして
叱ることも悪いことではないのだ。
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