先頭ページ 前ページ 次ページ 最終ページ
世間の中の一人 イチゴの広場
佐保あるま中1 日本人の多くは、社会を構成する個人としてよりも、世間の中にいる、一人の人間として行動している部分の方が多い。日本人の一人一人には広い 狭いの差はあれ、世間があり、個人の性格にもよるが、社会の中より世間の中で暮らす方が暮らしやすく楽なのだ。私は世間という感覚をモデルに しすぎることは良くないと思う。  

 第一の理由は、ある程度は「世間」という感覚を持っていても良いが、いきすぎると自分の個性が出せなくなってしまうからである。この長文に
もあったように、日本人は世間を気にして生活していると思う。例えば、学校で先生に、  

 「意見のある人は手を挙げて!」
 

 と言われても、
 

 (目立ったらいじめられる・・・本当は私には意見があるけど、言えないなぁ・・・)
 

 と考え、意見がはっきり言えない人は少なくないと思う。このようなことは、他にも、思ってもないのに友達の意見に合わせる、とか、本当は得
意なことだけど自慢みたいになるからやめよう、とかいろいろある。私にとってのこんな例は、ともだちとしゃべっていて、知らない話が出たとき に、たいてい知っているふりをすることである。みんなに  

 (この子は流行遅れだな。)
 

 というふうに思われるのが気になるからである。このようにして、だんだん自分の個性が薄れていくのだ。
 

 第二の理由は、世間を気にしなさすぎて自分の仲間意識を大切にしすぎるからである。最近は、いつでもどこでもかまわずに座り込んで話をした
り、自分勝手にうるさくしゃべり出したりする人が増えているが、これはたいてい仲間と一緒に実行している。このようなことをする人でも、一人 でいるときなら案外静かだったりする人もいる。「仲間意識」というのはどんどん強くなってきていると思う。例えば、私の仲間に当たる人が、先 生に怒られたとき私はその子をフォローしてあげたり、慰めてあげたりするが、他の子が同じ目にあったときは慰めるどころか、私は関係ない、あ んな風にならないように気をつけよう、と思ってしまうことである。けれど、ほとんどの  

 友達はみんなこんなものである。別に仲間以外の人に心配されなくてもいいと思うのだ。それがいけないのだ!みんながそんな感覚でいるから、
仲間意識は強まっていくと思う。けれど、自分の考えが仲間であるか否かで変わってしまっていいだろうか。先生にしかられたことをどう考えるか の自分の考えはひとつだが、仲間ならかわいそうで、そうでないなら、平気。という考えをしていると、いつか仲間という社会の中でしか物事を見 られなくなってしまうのだ。そして、社会に対してもそういう意識が高まり迷惑をかけていても気づけなくなってしまう。だから、仲間のことだけ ではなくてもっと大きな目で、自分たちだけの世間、じゃなくて、みんなの世間と考えるのが大切である。  

 確かに、「世間」の存在は自分の居場所として大切だし、仲間も大切だが、自分の意見がはっきり言えないと、個人としての考えが出せなくなっ
てしまうし、仲間という社会中でしか物事を見ることができないと、社会に対しても鈍感になり仲間内のことしか考えなくなってしまう。 「正し いものは、悩みも多い」 というように、世間か社会か・・・と言うことは簡単に決められるものではないが、しっかりと世間について考え、日本 人は行動していくべきである。  

 
                                   
ホームページ