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清書:情報 イチゴの広場
ムッちんとの中2 去年も様々なニュースがありお茶の間を騒がせていた。目の前のディスプレイから今、世界で何が起こっているかが実際に目で確かめなくても数秒 でわかってしまう。  

 情報という二つの文字がこの世界を支配しているといってもいい。本来情報というものは人と人とのコミュニケーションの際に伝えようとするも
のの具体的なものである。  

 例えば、「〇〇さんは今日は塾で家にはいないからまた来てね」という文章。
 

 これを自分に必要なだけ情報化させると  〇〇さん:いない=また来る  だけに簡略化される。まったく人間味の無い文である。だがこのよ
うなやり方無しでは今の生活は成り立たない。  

 勿論、我々がほとんどの場合知識的に頭に吸収されるものは情報に感情をいれてわかりやすくしたものだがメディアと情報はある意味で正反対だ
といえる。だから物事を認識するためにはメディアと情報を組み合わせて 情報→メディア→頭のように構成されていると僕は思う。  

 だが、ここでひとつの疑問が沸く。それは「情報」の発信源である。「今日CDが〇〇枚売れた」という統計的なものは問題無いのだが、ある出
来事を情報として伝達する時はどうするのだろうか。これは数値化できるものではなく周りにい合わせた人たちの基準でその出来事を解釈しなけれ ばならない。人に聞けば「怖かった」という人もいれば「楽しかった」という人もいて十人十色である。だから多くの意見を取り入れてその中で比較 的多数の意見を情報としてしまう。  

 つまり情報というものはかならずしも真実ではなく大衆的な一方通行の見方であるともいえる。だから、僕は情報というものは必要だが標準的な
基準で正しいということばかりに頼らずメディアという感情的なことから自分の『情報』というものを感じたい。                                              
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