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レトリック感覚の必要さ
アジサイの広場
りさあいす中3
 レトリックとは、十円玉のことを「円形である」ともいい、「長方形である
」ともいえるように、別の見方をするということである。また、私たちの認識
と言語表現の避け難い一面性を自覚し、別の視点に立って別の展望をさがす努
力をするということでもある。このようなレトリック感覚は、新しい視野を獲
得するためにも、相互理解のためにも、たいへん必要なものとなってくる。よ
って、レトリック感覚は人間が最も必要とするべきものなのだ。
 
 例えば、日常生活の中でたくさんの噂が流れてくるだろう。これを、まとも
に信じては裏切られる事が多い。同じ学年の人で、噂により悪いイメージがつ
いてしまった人は少なからずいるだろう。この人達と付き合ってみるまでは、
噂だけの一面的な見方しかできない。しかし、同じクラスになって触れ合って
みると、噂とは正反対な、優しい人だった。このような経験は誰にでもあるの
ではないだろうか。人の事は多面的に見なければいけないということが分かっ
たに違いない。例え、自分がある人を嫌いになってしまっても、悪いところば
かり見つめず、良いところを見つける努力をしなければいけないのだ。
 
 社会に目を向けてみると、レトリック感覚を必要とすべき人は山のようにい
る。ユーゴスラビアの紛争にしても、日本と北朝鮮の関係に関しても、両者一
歩も譲らないという感じだ。特に、ユーゴスラビアの紛争に関しては、話し合
いで解決しようという気持ちは全く無いようである。誰もが、固定した考えを
持ちつづけ、その考えを変えようともしない。別の見方をしようとはせず、い
つまでたっても問題は解決しない。このような人達はレトリック感覚をもっと
必要とすべきだ。
 
 「悪い事そのものがあるのではない。時と場合によって悪い事があるのであ
る」というように、固定的または、一面的に物事を見たら悪い事かもしれない
が、よくよく考え、柔軟的、多面的に考え直してみると案外悪い事ではなかっ
たりもするのだ。どう考えても悪い事はあるが・・。
 
 よって、物事を多面的に見るというレトリック感覚は人間が立派に生きてい
く事に、とても必要なもの、欠かせないものなのだ。そのことを忘れずに、何
事も行うべきだと思う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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