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芸術スポーツといっても
アジサイの広場
武照あよ高2
 男の服は、汚れのない白であった。彼は特別に編成された警察の隊長であっ
た。ある日、二人の少年が「セ」についてのの新聞記事を持っていたため、警
察部隊によって逮捕された。白い服の男は言う。「おまえ達は、セについて知
ろうとしただろう。」否定する少年達を白い服の男は鞭で打った。男は思う「
センソウについて知る者に同情してはならぬ。戦争の概念を持っているから戦
争が起こるのだ」。男の服は「平和」を表すに相応しく真っ白であった。
 
 これは星新一も短編小説「白い服の男」であるが、目的のと手段の混同が時
に恐ろしい世界を創り出すことをよく表しているであろう。「戦争という思想
を抹消する」という手段が目的として一人歩きしたがために、「平和」という
目的を見失うこととなったのである。確かに極端な例には違いない。しかしこ
の目的と手段の混同はいたる所に見ることが出来る。少年犯罪のために「キレ
ル」という言葉を禁止した学校があった。国家の期待を背負ってワールドカッ
プに望んだサッカーの日本選手が、敗戦の末、清涼飲料水をかけられたことも
あった。これはスポーツに、「点数」や「勝敗」といったスポーツ以外の目的
を求めたからに他ならない。もっと概念的なもので言えば、「学問は道具であ
る」という考えがあるであろう。目的を、その目的を達成する手段とすりかえ
るのではなく、そのもの自体を目的として認められる社会が求められている。
 
 その物自体を目的として認められなくなった背景として、人間臭さに対する
信頼が失われてきたということがあるであろう。それは「物質社会」と表裏一
体であるはずである。例えば教科書というものは、実質的には試験を想定した
ものである。後に役立つ内容を、効率的に学べるように出来ている。しかしな
がら、地学を趣味とする私から見れば、地学とは化石の種類を覚えることでは
ないのだ。そのようなことは図鑑を見れば載っている。野山を歩き、化石を発
掘し、化石がどんな意味を持つのか「人間臭く」考えることが地学の面白さな
のである。スポーツでも同じで、スポーツから人間臭さが失われればそこに残
るのは点数という物を生み出す産業用ロボットか、寸分違わず動く兵隊であろ
う。そしてまたそのようなスポーツは名残にはなりつつあっても、現在でも続
いていることなのである。
 
 確かに手段を目的として考えることによって秩序が保たれている面を忘れて
はならぬ。「法」という物は、手段でありながら、かつそれを無条件で守るこ
と自体が目的となっているのだ。しかしながら法が全く厳格に守られている社
会というものは恐ろしい。自分が走っている車線を他の車が向かってきたら、
対向車線を走ることになろうとも我々はよけるべきなのだ。「法」は安全とい
う「目的」の手段に他ならない。目的が手段に先立つ社会、それは人間臭さが
生きる暖かい社会に違いない。全くの白い服など、平和の幻想に過ぎないのだ
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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