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近代社会は前近代の
アジサイの広場
武照あよ高2
 「人と鳥とどちらの方が、優れた動物ですか」と聞かれた高名な学者は答え
る。「そりゃ決まっとる。人間は口が飛び出ておらず、顔が平坦だ。それに対
して鳥は嘴が飛び出ていて顔が前後に長い。このことは人間が鶏より相対的に
優れていることを示しているのであるぞ。」
 
 今聞けば笑ってしまう話であるが、十八世紀にはこのように、顔を横から見
たときに長いか短いかによって、進化学上の地位ができるという説が大真面目
に論じられていたのである。我々は同じ問いに次のように答えるだろう。「人
間は空を飛べない。動物にはそれぞれの特徴と価値があって優劣をつけること
はできないよ。」この動物の地位につての考え方の変化は、我々の社会での序
列の崩壊を象徴している。つまり「人間にはそれぞれ個々の価値があって序列
はないんだよ」ということだ。しかしこの序列の崩壊は同時に新たな問題を生
んだ。すなわち、「自分の地位は何なのか」という不安であり、その不安を服
装や趣味といったスケールの小さな差異によって解消しようとするという現象
である。人間の平等とは何か、差異とは何かここで考えていきたいと思う。
 
 ではなぜ社会の序列が崩壊したのであろうか。まず前提として、社会が豊か
であるということではなかろうか。物質的に豊かでない社会というものは、個
々の価値よりも所有物の多さや質の高さが優先される。それは同時に、社会的
な権力や地位と結びつくはずである。産業革命以降、我々は部質的な豊かさを
目指してきた。人間の平等思想が、産業革命と時を同じくして一般に広まって
きたことは偶然ではないだろう。現在、情報化社会に伴って、社会的な序列は
ますます失われているはずである。
 
 もう一つ考えられる背景として、現在の資本主義自体が社会的序列を保ちに
くい仕組みであるということである。「終身雇用」という序列を持った社会が
崩壊しかけている背景には、終身雇用制が資本主義を動かす自由競争の中で生
き残れなかったということがあるであろう。年齢という固定的な序列は、資本
主義の前では意味をなさなかったのである。
 
 私は何も社会的な序列が必要であるといっているのではない。「縦社会」に
代表されるような、序列が個人の価値よりも優先される社会というものはやは
り不自然であるし、弱い体制というものを生み出すことになるであろう。しか
し前に述べた、序列の崩壊に伴う問題は我々の平等主義がある点を見えなくし
ているということを示している。つまりすべての人間は平等ではあるが、すべ
ての人間は異なっているという点である。「同じであるということを前提とし
た差異」ではなく「違うことを前提とした平等」というように意識を変えて行
かねばならないだろう。
 
 古生物学者で進化論学者のサイモン・コンウェイ・モリスは、人間が動物の
頂点に立つ生き物ではなく、進化の到達点でもないことを認めた上で次のよう
に言っている。「人間は進化の歴史の中で唯一、自己の起源を考えうる生物な
のだ」と。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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