先頭ページ 前ページ 次ページ 最終ページ
死に立ち向かう
イチゴの広場
杉田大岳うい中3
 今日の現代には死というものが身近になっている。だがその死のほとんどが
擬似体験的なものでしかない。死というものが身近になること事態は、決して
悪いことではない。むしろ、死というものと小さい頃から正しく向き合ってい
くことによって、死を悲しい物だけとして感じるのではなく、それに対して立
ち向かう勇気を培っていくことができるのだ。逆に疑似体験的なものでは、死
というものを歪んだ現象として認識してしまうことが多い。それによって今の
現代ではさまざまな異常事件が多発している。これから我々は過酷で悲惨な死
に立ち向かっていくべきだ。
 
 そのためには第一に、小さい頃から死に対して正しく向き合っていくことが
大切だ。私たちにとって一番身近な死は、捕まえたりして身近にいる虫や、小
動物の死だろう。幼心になぜ動かないのだろう?とかなにかいつもとは違うと
いうことを敏感に察知し、死という語はわからなくても意味は自ずと理解する
だろう。その時に親などがかわいそうだからなどと、死というものをその子ど
もと向かいあわせないことは、その子どもに死というものを考えさせる機会を
失わせ、死を歪んだものとして見なしてしまうのだ。
 
 第二に、死に対して悲観的になりすぎてはいけない。死というものを理解し
た時、誰もが、では自分はどうなるのか?自分も結局死ぬのだ。と思うときが
ある。さらに心が繊細な人なら無気力になってなにもする気がなくなるだろう
。たしかにある物事に対して考え、気持ちの整理をつけることは、次の段階に
進むための大事な過程ではあるが、死を考えることに依存してはいけない。死
というものに依存してしまったこととして、最近ミイラ化した遺体が発見され
たことが挙げられる。その発見された人物の子供は、その状態に対して「父は
まだ生きている。」と主張しているのだ。つまり死に正面からぶつからず、立
ち向かわなかったのだ。
 
 確かに死を正面から見つめ、立ち向かうことは相当の勇気が必要だし、その
死が身近な大切な物だったらとてもつらいことだと思う。しかし、その死に依
存することによって避けていては、それ以上のこと、つまりその死にどのよう
な意味があるのかということを見つけることは、不可能である。だから生と死
に対してはっきりボーダーラインを引かれた現代で、ある一面自分自身をクー
ルにし、死に立ち向かって気べきではないだろうか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

ホームページ