「世間体」 |
アジサイ | の | 滝 | の広場 |
あずさ | / | あすな | 中3 |
日本において、社会は個人から成り立っているとされている。しかし、実際 |
は社会を構成する個人としてよりも、世間の中にいる一人の人間として行動し |
ている部分の方が多いのである。その世間というものは、日常生活の次元にお |
いては快適な暮らしをする上で必須なものにみえるが、公共の場に出たとき、 |
その中にある排他性や差別的閉鎖性がはっきりとあらわれてしまう。問題なの |
は、日本人には、自分たちが排他的な世間をつくっているということの認識が |
ないことである。 |
確かに「学校」という世間のなかで、毎日同じことの繰り返しに飽きてしま |
ったとき、ひとは全てのものに反抗するという手段に出る…とするとやはり教 |
師へのイタズラに走る。そこへ「ねえ、そういうことってよくないと思うな… |
」とか水を差す奴が出てくるのは、私立の女子校の法則というものだろう。と |
こう思っている私はすでに世間の中で生きている人間なのだという事が分かる |
。こうなったとき、やはりその人を爪弾きにせざるをえない、集団活動を乱す |
ものは仲間はずれ、とこれは世間から教えられた教訓の一つなのであろう。し |
かし、「赤信号、みんなで渡れば恐くない」ではないのだ。みんなで渡ってい |
る最中にトラックがやってきたとしたら、みんなで轢かれるのかというとそう |
ではない、誰かが赤信号で渡っていたら、それを止めてあげるくらいの人にな |
らなくてはならないのだ。「世間」という枠にドップリつかってしまった人間 |
は「社会」の中に入ることはできないのだろうか。 |
会社ぐるみの汚職といえば、防衛庁だが、あのときに書類を家に持って帰れ |
と言われた社員は、断ることが出来たかもしれないが、やはり目先の自分を考 |
えると、持って帰らないわけには行かなかったのかもしれない。けれどもっと |
先のことを考えれば、見つかってしまったときに、自分に降りかかる火の粉を |
はらうことが出来ないことくらいは考えつくはずなのだ。 |
「やさしさが性格の弱さであってはならない。」という言葉があるように、 |
みんなと同じように生きるということが、「世間」に従うということであって |
はならないと思うのである。みんなと同じように生きていれば世間から爪弾き |
にされることはない、しかしそれは「世間体」という言葉にだまされて人々が |
良いと思い込んでしまったに過ぎないのだ。だからひとは、今度は「世間」を |
壊して「社会」に戻れるように意識していかなくてはならないのである。 |