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持ってきてはいけないもの
イチゴの広場
酔月あも高3
 私の学校にも持ってきてはいけないものは、たくさんある。その代表例がPH
Sである。授業中に使用しないかぎり、コミュニケーションの手段としては、公
共の福祉に反するようなことは、ないように思える。ところが、どう言うわけ
か、禁止したがる。禁止される由縁は一切なく、教師の意地としか思えない。
実際の問題として、「持たせないこと」が、「持たせること」の地平となって
いるのだ。
 
 現代の社会において、悪いものの持参を禁止することが、良書を読むための
解決法であると考えられていることが問題であると思う。
 
 第一に、「奇態」の状態方程式により、圧力Pが増加することにより、その
温度は上昇し、圧迫されたものに対する熱が入ってしまうので、逆に緩和して
やるという対策がある。そのうち、人間は飽きるものだ。
 
 ちょっと前に、たまごっちとやらが、流行ったがさすがは流行りモノ。一過
性のものに過ぎず時代の流れと共に姿を消していった。全盛期の学校側の取り
締まりは、教師の引出しがおもちゃ屋になるほどの成果をあげたようだが、衰
退期においては、「持って帰ってください」といわんばかりである。ほっとけ
ば、いつかは終わったものを…。
 
 抑制は防止ではなく、流行を促進する。(←一応名言)
 
 第二に本当に不要なものは、目にもとまらなくなり、見極めることができる
のである。だから、マルクスの考えた経済の様に、自由奔放にさせておくとい
うことがある。持参品にも自動調節機能ははたらくのではないだろうか。
 
 試験において、禁止されているものの代表例としては、カンニングがある。
私の持っている時計には、255文字(←ここがデータ)まで入力でき、カンニン
グにはもってこいのマシーンである。だが、「カンニングしてもいいけど、実
力にはならないよ。」といわれればそれまでだ。確かに、実力テストなんぞ言
うものは、自分の為にやっているに他ならない。自分に甘くして、何の得があ
ろうか。
 
 確かに、もってきてよいものに歯止めをかけないことは、先日のナイフ犯罪
の様になり兼ねないが、自己の意識確立がなされていれば、持ち物に決まりを
作ることは、あまりにも過保護であるといえる。
 
 自分の持ち物を気にするのは、自分に自信がないだけなのだから、持ち物の
どうこうというのは自己の意識レベルというものが問題になってくるのだ。
 
 悪いものそのものはない。包丁だって台所用に販売しているのだから、目的
を見失わないような使い方が出来るならば、禁止にでなく緩和というやり方が
、精神的にもよいのではないだろうか。