手段としての情報伝達 |
アジサイ | の | 谷 | の広場 |
ペー吉 | / | うき | 中2 |
日本人はごてごてしたものでなく淡白な、感覚的な会話を好む傾向がある。 |
結論を曖昧にし、道筋を飛ばす。そういう通人が考え出したのが、女性的言語 |
が主になったのが和歌であり俳句である。この和歌と俳句は、感覚的に全体を |
把握する。完結した表現は詩にならないのだ。 |
私は、俳句や短歌、詩というものが苦手である。というのは、言葉の論理を |
無視しすぎている感があるからだ。日本語としてなっていない。感覚にいいた |
いことがつまりすぎていて、思い浮かぶ情景は千差万別、伝えたいことまで変 |
ってしまう。完結した表現を嫌うあまり、簡潔すぎる表現になってしまうのは |
問題だろう。こういう詩がある。タイトルは「さがしもの」といい、本文はわ |
ずか三行で構成される。 |
「<font color=malineblue>綺麗な夕日のしずむところにいく |
綺麗な夕日のしずむところにいく |
それがまちがいでも見に行く</font>」 |
この本文と「さがしもの」というタイトルがどのように繋がるのかは非常に |
疑問である。情景が思い浮かばないどころか、伝えたいことまで分からない。 |
伝えたい思想を文章にしたのでなく、感覚をむりやりに書き表しているようだ |
。感覚を伝えたいならば論理的思考に直接つながる「文字」ではなく、他のな |
にかを使用するべきではないだろうか。 |
詩や和歌はその感覚的な表現の中にある何かを探すものだ、という意見もあ |
るだろう。まあ、一般的にはそのように捉えられているのかもしれない。「松 |
島や ああ松島や 松島や」「山路きて なにやらゆかし すみれ草」「やせ |
蛙 負けるな一茶 これにあり」などの俳句は、読み取りやすい部類に入るだ |
ろう。自分の気持ちを句の中に反映させている。それを読み取る過程は、面白 |
いと言えば面白い。 |
しかし本当に大事なことは、感覚的な文章を書くのではなく、論理を文字で |
伝えるのでなく、その伝えたいことだろう。作者の心情が直接に、あるいは遠 |
回しにでも、少しでも伝われはそれは成功と言えるのかもしれない。ことばと |
言うのは論理を表現する手段だが、感覚的な論理によって他者に言葉を伝えて |
もいいかもしれない。「存在するものには、よいとか悪いとか言う前にすべて |
それなりの理由がある」という言葉がある。論文も詩も、思想を伝える一つの |
形である。よい伝え方、悪い伝え方はある。しかし、一応把握はできる。大切 |
なのは伝え方ではなく思想である。 |