| 知識の生産過程が |
| アジサイ | の | 道 | の広場 |
| 冨田 | / | あよ | 高1 |
| 「君の目の前で私が物を打ったとする。すると物が飛んだとしましょう。君 |
| が見ているのは私が物を打ったという事実と、物が飛んだという事実だけです |
| 。そこに打ったから飛んだという因果関係を導くのは人間の性質であるとヒュ |
| ームは考えたんだ。」と哲学者はソフィーに言った。 |
| これは「ソフィーの世界」の一部分であるが、この因果律は多くのことに当 |
| てはまる。「カエルが鳴くと雨」「鳥が低く飛ぶと雨」「夕日が赤いと雨」の |
| ような知識はカエルや鳥などの振る舞いについての情報と雨が降るという情報 |
| を人間が経験によって体系化したものであろう。つまり知識というものには情 |
| 報と、その情報を加工する人間の精神的な作用の両面によって作り出される物 |
| なのである。現在は情報社会であると言われる。情報が増えただけ我々の知識 |
| は多く生産され蓄積されたのかと言えばそんなことはないであろう。情報が増 |
| えたが為にその材料を使いこなせていないと言うのが現状であろう。 |
| ではどうすれば良いのか。それは「必要な物としての」情報を集めるという |
| 姿勢であろう。どこかへ行きたい、自分の考えたことを証明したいなどと言う |
| 時に情報を得ると言う姿勢である。ロバート・バッカーは恐竜温血説を証明す |
| るべく研究を続けている古生物学者であるが、彼は発掘されている恐竜の肉食 |
| と草食の比率を調べ、肉食恐竜が10%程度という、現在の温血動物である哺乳 |
| 類の生態系に似ていることを突き止めた。このような態度で情報と接すること |
| は情報をうまく選択する一つの方法であろう。 |
| しかし現実は取捨選択のせずに取り入れる、または取り入れざるを得ない状 |
| 況に我々が置かれているのも事実である。テレビを見ていればいやでも宣伝が |
| 入るし、電車でふと上を見れば広告が並んでいる。サブリミナル効果が問題に |
| なった時もあった。しかしまた我々が好んで雑多な情報を多く持とうとしてい |
| るのも事実なのである。 |
| 確かにただ情報集めることによって認識による体系化を経ないでもそこに知 |
| 識が導き出せる場合もある。コンピュータの発達によってその成果もますます |
| 大きなものとなるであろう。しかし情報があれば人間の体系化の能力は必要な |
| いのかと言えばそんなことはない。体系化の能力は人間の想像する能力と直結 |
| してくる問題であろう。全ての知識が情報の集計によって導き出せるわけでは |
| ない。多くの場合人間の創造性と言うものが最後の一歩で必要となってくる。 |
| その一歩がいかに困難であるかは、最先端の科学において理論が簡単に崩れ去 |
| っていくことを見れば明らかである。ヒュームの因果律という「知識」が人間 |
| の創造性なしに生まれたとはとても思えないのである。 |