| ひとこと |
| 「新旧」は違えど「努力」は同じ |
| アジサイ | の | 池 | の広場 |
| 小林 | / | ねき | 中1 |
| 「ラレル」という助動詞には、四つの使い方がある。それは受け身、尊敬、自発、可能である。こ |
| の四つの仕事を、「ラレル」は実にうまくこなしてくれる。しかし、それを使う人間のほうが面倒く |
| さくなって、「ラレル」の四つの働きのうちの一つ、可能を「ラレル」の「ラ」を抜いて、「レル」 |
| に変えてしまった。このことは二十世紀日本語の重大問題の一つに違いない。「別に『レル』でもエ |
| エやん。」と思うかもしれない。しかし、言語というものはその本質においてうんと保守的なもので |
| ある。そこで、そう簡単には言語多数決の原理だの言語経済化の原理などを受け入れれない。おっと |
| 失敬、受け入れられないのである。 |
| こういった新旧の対立は何も「ラレル」という助動詞に限ったことではない。物事が進化する限り避 |
| けられないことである。私にもそんな経験があったような気がする。それは今からおそらく三年ほど |
| 前――私が柄にも似合わず時代の流れに乗って、「ミニ四駆」と言う未知の領域へ人類の歴史を刻も |
| うとしたその時であった。私が親に、「これ買ってちょ」と、総額約600円の品物を出すと、親は「あ |
| んた他にも色々もってるくせに、まだ買うつもり!?」とすでに時代遅れのものをさも最近購入した |
| かのようにいってきた。そこで私もまけじと、「あれはもう超古いんだよ。」と、それほど古くないも |
| のをさも懐かしい過去を思い出すかのように言い返した。そして、約一分三十秒ほどの壮絶な口論の末 |
| 、私の情熱が親の金銭感覚をわずかに上回り、ついに購入に至ったのだった。これも一種の新旧の対 |
| 立ではないだろうか。 |
| また、もう一つほど例を挙げると、地動説と天動説の対立が挙げられる。昔々は、天動説と言う説 |
| が通説で、地動説を唱えると死罪になるほどだった。そうして死んでいったものは、数え切れないほ |
| どだった。しかしそれから幾年月たっていき、天動説に矛盾が見つかっていき、今はもう地動説が絶 |
| 対不動状態になっている。まぁ、絶対とは言えないが、天動説よりは、とても有力になっている。こん |
| どは、温故知新の信念にもとづいて、(これは、「旧」を尊重することかな)昔話「姥捨て山」を取り |
| 上げてみよう。あれは、古い考えを捨てろ、と言っていたのが、古いものも大切だということにきづ |
| く、ということである。この物語がいわんとしていることは、新しいことも大切だが、古いことから |
| 学ぶことも多いと言うことである。 |
| 「温故知新」と言う言葉がある。この言葉を、私は頻繁に作文の中に取り入れている。学ぶことは |
| 新しいことからだけではない、ということである。新旧でどちらがいい?と聞かれたら、ほとんどの |
| 人は「新しいほうのほうがいい」と答えるだろう。そりゃあ旧より新のほうがいいだろう。しかし、 |
| 古いほうを徹底的に無くす、というのはちょっと間違いだと思う。今新しいことをやろうとすれば、大 |
| 変な努力が要る。それは、昔の人も同じなのだ。つまり、古い考え方と言うのは、それよりも古い人 |
| 達の途方もない努力の末に築かれているのであろう。だから、それから学ぶことはないと断定して、 |
| 徹底的に無くす、ということは、決して良いこととは言えないのである。「ラレル」という助動詞に |
| 四つの仕事を任せたのも、そんな努力の末にできたのではないのだろうか。 |