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ひとこと
日本語は難しく感じラレル。
アジサイの広場
ペー吉うき中2
 「ラレル」という語は、四種の働きを持つ助動詞である。ところが、この言語の使い方のほとんど
はラを抜いて省略した形で言われる。ラ抜き言葉は永く批判の的となっているが、次第に使われるよ
うになっている。いかに楽とはいえ、その姿勢は認めたくはない。
 日本語の言語のなかには、時の流れと共に変わっていった言語がかなりある。例えば、「しょうが
ない」という言語。聞いた感じは確かに「しょうがない」だが、これを書き表す時には「しようがな
い」が正しいのではないか。なにせ、「仕様がない」のだから。一般に販売されている本にも、「しょ
うがない」という言い方は使われている。これのほうが言いやすいことは言いやすいので、喜ぶべき
ことなのかもしれないが。口の怠惰による言語の簡略化の例ならば、最近ではあまり聞くことも無く
なったが「チョベリバ」などがあげられる。漢語と英語を混ぜて使い、なおかつそれを略すという、
ほとんど暗号並、いや、完全密室殺人のトリック並の複雑さを持つ死語(もう死語だろうか?)である
。そう、この言語ももう廃れつつある。古い言語を時の中へ捨てることにより、新しく優雅な言語を
使うのだ。
 しかし、いかに面倒くさいからといって、言語を省略するのはどうかと思う。古い言語には古いなり
に味わいがあるのだ。「乳母捨て山」という昔話がある。この話の内容を一言で言うと「亀の甲より年の
功」。…諺とは便利である。言語の保守性のため、古い言語を切り捨てず残すことによって、コミュニ
ケーションの幅も広がっていく。
 新しい言語により会話することも必要だが、古い言語を忘れずに伝えることも同様に必要である。
新しい言語は省略が多すぎ、時に意味が通じない。古い言語は、口が疲れる。誰だって楽はしたいが
、肝心のコミュニケーションがとれなくては本末大転倒に感じる。ラレルという言語は、口語的な側
面では使わられにくいかもしれないが、だからといって省略させられては、言語の持つ保守性が無視
されたことになる。我々は、状況と状勢に応じて、意味の通じるような、必要な言語をチョイスして
いかなければならないと思われるのである。